開化期から8.15解放までの演劇概観 徐恒錫(ソ・ハンソク)
「演劇年鑑」は韓国文化芸術振興院の発行する『文藝年鑑』の演劇部分を翻訳・転載したものです。著作権は著者と韓国文化芸術振興院にあり、翻訳の責任は岡本にあります。

この章は李朝末期から1945年8月15日の8.15(パリロ)解放までの韓国演劇を概観したものです。文中の演劇作品名は韓国語をそのまま翻訳しており、日本での作品呼称との照らし合わせは行っておりません。

序言
1.新演劇の導入
 1-1. 最初の劇場
 1-2. 協律社と圓覺社
 1-3. 文秀星と唯一團、その他
2.土月會前後
 2-1.土月會の前哨
 2-2.土月會の出現
 2-3.その他の劇団
3.劇芸術研究會発足以後
 3-1.劇研発足の前後
 3-2.劇芸術研究會の発足
 3-3.東洋劇場の創設
 3-4.劇研の前進
 3-4.劇研の受難
4.国民劇の強要

序言

韓国は中世以来、固有の演劇を持っている。淵源の久しい處容舞(チョヨンム)も一種の演劇であり、パンソリも独特な様式の演劇であるに間違いなく、この他に「河回(ハフェ)仮面劇」「楊州山臺(ヤンヂュサンデ)ノリ」」「統榮五廣大(トンヨンオクァンデ)」「鳳山(ポンサン)タルチュム」等もみな韓国の社会・風土・習俗・信仰・儀礼などから自然発生的に成立し、独自の形態を持った堂々たる演劇である。しかしこの既存演劇は平坦ではなかった社会的与件のために、民族芸術としての充分な発達を成すことなく、ただ単に民俗的な境地にとどまっている。

韓末の開化期に至って、西欧の発達した演劇様式が導入された。これは韓国の既存演劇に西欧様式が加味されて新しい変貌を招来したのではなく、既存演劇とは別途に新しく西欧様式の演劇が試されたものとして、文化史的に大いに意義のあることである。以後の韓国演劇の主流はこれをもって成り立っているのである。

韓国の伝統劇を旧劇あるいは旧派とするならば、以後の演劇を新劇あるいは新派としても差し支えないだろう。しかし新派という名称は以後の演劇における特定の演劇スタイルを呼称するものとして定まっており、新劇という名称は俗に近代劇という意味で通用している。また、近代劇ということばは19世紀後半から20世紀にかけての西欧写実劇を指し示す意味として定まっていることから、(開化期)以後の演劇を一括するには新派という名称も新劇、あるいは近代劇という名称もすべて適当ではない。そこで以降の演劇を新演劇という名称で一括する。

新演劇も1976年の現時点から見るならば「8.15(パリロ)」 [訳注:1945年8月15日のこと] を分水嶺として、それ以前と以後のそれぞれ30余年の歴史を経ており、いまでは前期・後期に分けられるようである。前期は新演劇導入期から「パリロ」に至る日帝統治と時を同じくする時期であり、演劇意欲の裏面には日帝に対する抵抗精神が隠れて流れており、民族意識が基調になっていると見る。本稿ではこの前期を概観すると同時に、新演劇の前期は約10年ごとにそれぞれ特徴ある発展を見せており、これを次のように四章に分けて叙述する。

1.新演劇の導入(1908~1919)
2.土月会前後(1920~1930)
3.劇研発足以後(1931~1939)
4.国民演劇の強要(1940~1945)

1. 新演劇の導入

1-1. 最初の劇場

韓国新文学の開拓者であり史学家の崔南善(チェ・ナムソン)は、彼の著書『朝鮮常識問答続編』344〜346ページ「演劇 戯臺の沿革」で、

『戯臺というは支那流に言うところの劇場ということばであります。朝鮮の古演戯にはこの意味での舞台を要せず、同時に特定の劇場施設も生まれなかったのです。韓末、高宗(コヂョン)皇帝光武六年秋に御極四十年稱慶禮式というものを京城で挙行することとし、東・西洋の締約各国の君主に招請状を送ったが、このような貴賓の接待のためにいくつか新式設備をにわかにする時に、その中のひとつとして奉常寺の一部を分けて、いまちょうどセムナン礼拝堂のある場所に煉瓦を丸く - 言わばローマのコロセウムを小さくした形に小劇場を建設して、女伶・才人を選んで芸技を演習させたのです。規模は大きくはなかったが、舞台・階段式三方観覧席・引き幕・準備室を備えた朝鮮最初の劇場であり、また長いあいだロンドンのロイヤル戯臺やビエンナの王立劇場に似せようとした、唯一の国立劇場であることは事実でありました。(中略)とは言えども、円覚社の名前が現れてからは戯臺という名前は漸次使われなくなり、ついには一般には忘れ去られてしまいました』

とした。これは信憑性のある記録であり、この記録どおりに韓国最初の劇場は光武六年、すなわち1902年に建設されたのである。しかし新演劇の導入はこの劇場の建設と時を同じくしたのでは無かった。いくつかの曲折を経たあとに、この劇場が新演劇の導入に関連を持つことになった。

円覚社(ウォンガクサ:圓覺社)劇場の建設経緯とそれ以後の曲折に関しては各説がまちまちである。まず前述した崔南善の説の他に二つめの説として、日本から戻った李人稙(イ・インヂク)が高宗の金でこの劇場を建設したという説がある。三つめは、もともとは軍人会館であったが、日帝の元凶伊藤博文が韓国軍隊を解散させる下心で、この建物を国立劇場に転用することを発議して採択されたという説などである。『韓国新演劇五十年史略』の著者朴魯春はこの三説を総合・折衷して次のような判断を下したが、筆者もだいたいにこれに同感していることから、『韓國芸術総覧概観篇』(1964年刊)所蔵の拙稿「円覚社以後の新演劇」で、そのまま引用したことがある。

すなわち1902年秋に高宗御極四十年稱慶禮式のために、その礼式場所としていわゆる戯臺を建設した。その慶祝行事に官妓・倡優たちをして歌舞・演劇を練習させており、その事務を引き受ける機関として宮内府管轄下に協律社(ヒョンニュルサ)を置いた。1902年秋に予定されていた稱慶禮式がコレラの流行で1903年春に延期されたが、また英親王(のちの李王垠)の牛痘病によって同年秋に持ち越された。しかしその秋は収穫が思わしく無く、さらには日露関係が険悪になることで礼式は形ばかりのものとなり、戯臺は協律社一派の興行演技場と化した。(中略)戯臺で協律社の歌舞が演戯されたのは1〜2年間のことであり、1905年(光武九年)11月に伊藤博文が来朝した頃には戯臺建物を軍人会館として使用していたもようである。そこで伊藤博文の悪だくみで、軍隊解散と同時に国立劇場として使うようになったようである。軍人会館として使用していた戯臺建物を国立劇場として運営するようになるやいなや、運営者として日本からその方面を研究したという菊初李人稙が選ばれたようである。

韓国最初の劇場たる円覚社の来歴はこのようなものであるが、当時の劇場界を紐解いてみれば、1907年に妓生組合(券番)が生まれるにともない、妓生・廣大・才人たちの歌舞場としてあちこちに劇場が生まれた。団成社(タンソンサ:團成社)・長安社(チャンアンサ)、演興社(ヨヌンサ:後に朝鮮劇場と改称)などである。そして1910年頃のソウルの南村 [訳注:ソウルを東西に横切る鍾路を境にしてソウルの南側地域をさす] には日本人の劇場として、南大門の外に南成社(後に御成座と改称)と忠武路(チュンムロ)に京城座があり、この他に本町座、歌舞伎座、寿座、龍山座、佐久良座等があった。これらの劇場は日本人居留民を対象に日本から渡ってくる日本新派劇の興行場所だった。また1912年には光武台(クァンムデ:光武臺)が建立された。

1-2. 円覚社(ウォンガクサ)と革新團(ヒョクシンダン)

韓国に最初の現代式概念の演劇、すなわち西欧様式の演劇が登場したのはいつだろうか?誰によってであろうか?これに対しても諸説がまちまちである。

韓国演劇史を最初に編した金在吉(キム・ヂェギル)は彼の「朝鮮演劇史」(1939年刊)で、「…光武年間に円覚社劇場が創立され、1909年に最初に李人稙が『雪中梅』『銀世界』などを上演しており、それが朝鮮新劇の第一声であった」と記述している。しかし「韓国新劇史研究」(1966年刊)の著者である李杜鉉(イ・ドゥヒョン)は同書19ページ以下の「円覚社設置に対して」で、1908年7月26日付けの皇城新聞の記事「小説演劇(円覚社) - 大韓新聞社長李人稙氏が我が国演劇を改良するために新演劇を夜珠覬(地名?)前協律社に創設し一昨日から開場したいるが、銀世界と題した小説で、唱夫を教育して2ヶ月後にはその該当新演劇を設行するというが、衆多な唱夫の教育費が巨大であることから其の経費を補助させるために、7月26日から2ヶ月間は毎日午後7時から12時まで、営業的に我が国固有の各種演芸を設行するという」を援用し、李人稙の円覚社創始は1909年ではなく「明らかに1908年7月26日」であるとしている。円覚社が国立劇場であるかの可否に対しても、「円覚社は国立劇場ではなかった。言うなれば最初の国立劇場であり、皇室劇場格であった協律社(劇場)はすでに1906年4月に廃止されてしまった」「円覚社は最初の公演から李人稙が新演劇上演のための準備として営業的興行を行わなければならなかったし、政府補助金や内帑金の下賜で経営なされていたという記録は見えない。(中略)政府と円覚社との密接な関係は認定できるが、それが国立劇場円覚社と言えるほどまで直接的なものでは無かった」とした。この点は後日、1950年代の国立劇場がしばらくのあいだ自体の収支均衡を原則とする特別会計で運営されていたことに思い至れば、円覚社が国立劇場ではなかったと即断する前に、さらに調査と研究を必要とする問題であると筆者は考える。次に円覚社の上演ものに対しても、李杜鉉は『雪中梅』は疑問視したが『銀世界』は認めながら、李人稙を新演劇の創始者と推定するに躊躇しなかった。しかし近来の演劇史研究者たちの中には、李人稙は『銀世界』を上演すると公然と述べたが、それは上演準備にとどまっており、あるいは上演することもできなかったと規定する論著を出した者もある。冗長であるを避けていちいち掲げることはしないが、これもまた定論を得るまで、さらに調査と研究をかさねて慎重を期せねばならない問題である。李人稙は前述の研究者たちの所論から、韓国新演劇の創始者としては疑問点があると言えども、彼が我が国に固有の各種演芸である「春香歌」「沈清歌」「興夫歌」「華容道」などのパンソリを、配役を分ける分唱形態で舞台化して唱劇として登場させた点で、唱劇の創始者として認めることを惜しむわけにはいかないだろう。

新演劇創始の栄誉が李人稙から剥奪されたなら、それはとうぜん林聖九(イム・ソング)に与えられなくてはならないだろう。林聖九は京城座の履物部屋で仕事をしていた青年だった。京城座や南成社など日本人の劇場は客席に畳を敷き、観客は履物を脱いで入ることになっていたことから、玄関のわきに履物を預ける履物部屋というものがあった。林聖九は観客たちの履物を預かりながら、暇あるごとに日本人新派劇の眺めつつ、演劇をもって亡国の民を覚醒させてみようと大きな志を持ち、金致景の財政的援助を得て、鄭明九(チョン・ミョング)、張光植(チャン・グァンシク)、林雲瑞(イム・ウンソ)、韓昌烈(ハン・チャンヨル)、金順漢(キム・スナン)、林仁九(イム・イング=林聖九の兄)、安錫鉉(アン・ソキョン)、黄致三(ファン・チサム)、梁聖賢(ヤン・ソンヒョン)ら、同志を糾合して革新団(ヒョクシンダン:革新團)を組織した。革新団の創立公演は、1911年初月に南成社で『不孝天罰』の一編を持って幕を開けた。林聖九の壮志にもかかわらず、興行は失敗に終わった。しかし林聖九はこの失敗に屈することなく、続いて翌1912年の旧正月を期して演興社で再起公演を持って好評を博しており、第3回公演もやはり盛況を成した。この2回と3回公演で一番歓迎を受けた演題は『六穴砲強盗』 [訳注:日本の新派劇ピストル強盗清水定吉の翻案もの] だった。

革新団が掲げた標語は勧善懲悪・風俗改良・民智開発・盡忠(尽忠)竭力などであり、初期のレパートリーの大部分は日本の新派劇をそのまま我が国の事情に合わせて変えた翻案劇であった。これらを上演するにおいては卞基鍾(ピョン・ギヂョン)が「演劇50年を語る」(芸術院報第八号)で述べたように、「当時、演劇は所定の脚本が無く、ある程度の演劇の内容と配役の性格のみ知っておき、各自要領よく相手方に応ずる、いわゆる口立(くちだて)式だった。そして動作も、一定の演出者の指導も無く各自要領よく適当な位置と動作をとる」のであった。革新団はその後、新団員に金顕(キム・ヒョン:後に聚星座団長となった金小浪)、金永根(キム・ヨングン:後に改良団・新劇座団長となった金陶山の)、千漢秀(チョン・ハンス)、高秀(コ・スチョル)が増員され、演興社で定期的に公演したのみならず、団成社と光武台を代わるがわるに公演しながら、1913年10月からは地方巡回もまめに行なった。1914年6月、林聖九は日本に渡って約4ヶ月間、日本演劇界を視察して戻っており、以後の革新団の舞台と演技は一段の進歩を見せた。

1-3. 文秀星(ムンスソン)と唯一團(ユイルダン)、その他

革新団は街頭の青年林聖九によって自然発生的に出現した劇団であるが、いっぽう日本留学生によって意図的に結成された劇団がある。尹白南(ユン・ベンナム:本名尹教重)の文秀星(ムンスソン)と李基世(イ・ギセ)の唯一団(ユイルダン:唯一團)である。

日本の東京高等商業学校を卒業して1910年に帰国した尹白南は、知識人による演劇活動を引き起こすことを意図して、趙一齊(チョ・イルチェ:本名趙重桓)と手を組んで劇団文秀星を組織した。そして円覚社劇場を公演場所に、正統演劇の樹立に努力した。1912年3月29日に徳富蘆花原作・趙重桓訳『不如帰』全9幕で創立公演を持ったのをはじめ、『長恨夢(チャンハンモン)』 [ 訳注:長恨夢は「金色夜叉」の翻案もの ] や『我が罪』など外国文学作品の翻案ものが多く、劇団の中心が文人たちであったことから、当時文秀星の演劇を文士劇であるとした。文秀星の陣容は尹白南を代表に、趙一齊、安光翊(アン・グァンイク)、韓撫~(ハン・チョルスン)、車寛縞(チャ・グァノ)、李範龜(イ・ボンギ)、羅孝鎭(ナ・ヒョヂン)、金相淳(キム・サンスン)らであった。

文秀星の出帆と年を同じくする1912年11月3日に、李基世の唯一団が初公演を開城(ケソン)の開城座で、翻案劇『妻』を持って幕を開けた。李基世は東京物理学校に修学したことがあり、京都で二年間、京都新派の巨頭静間小次郎 [訳注:静間は川上音二郎門下の新劇俳優 (1868~1938)] の門下で演劇の勉強をし、故郷である開城に戻り青年同士會を組織したが、それを唯一団に発展させたのだった。開城座から出発した唯一団は京城の団成社・演興社でも公演しており、地方巡回も行なった。その上演ものは『妻』以外に『我が罪』『不如帰』『長恨夢』『血の涙』などであった。唯一団の陣容は李基世を代表に、安光翊、韓撫~と卞基鍾(当時18歳で、青年派一団から移る)、李應秀(イ・ウンス)、尹相煕(ユン・サンヒ)、李光(イ・グァン)らであった。李基世の唯一団は団勢の不振を挽回するために、1916年3月には尹白南の文秀星と合団して芸星座(イェソンヂャ:藝星座)と改称し、団成社を中心に一時人気をかもした。しかしいくらも経たないうちに解散した。李基世は再び朝鮮文芸團(チョソンムネダン)を組織したが、これは1919年10月のことだった。

以上の記述を通して見るとき、新演劇導入期における李人稙の新演劇への関与に対しては、まだもう少し調査と研究を要する問題であるとして、新演劇導入の殊勲者に林聖九、尹白南、李基世を指折り数えるに意義を提する者はいないであろう。ここで再び新演劇導入期である1910年代の劇界の動静を紐解いてみると、それぞれに旺盛な創造欲からであろうか無謀な競争心からなのか、でなければ与件の不利からなのか、劇団の生滅離合があまりにも頻繁であった。

1912年に趙重桓(別名趙一齊)と彼の弟である趙銀章が私財を投じて組織した革新善美団(ヒョクシンソンミダン)が長安社で公演したことがあり、革新善美団のあとに続いて李鍾國(イ・ヂョングク)を団長にした梨花団(イファダン)が生まれて、やはり長安社で公演した。そして革新善美団・梨花団両系の出身者が集結して一心団(イルシンダン)を組織して演興社と長安社で公演したことがあるが、これら劇団の成果は大きく無かった。一心団や藝星座のように合団があるかと思えば、いっぽうでは創団と分化があった。都元恒(ト・ウォナン)を代表に李敬煥(イ・ギョンファン)、白完鍾(ペク・ワンヂョン)、玄聖完(ヒョン・ソンワン)らが鶴林美団と少年演善団を組織したのが創団の例であり、革新団の副団長であった朴昌煥(パク・チャンファン)が林雲瑞(イム・ウンソ)、金順韓(キム・ヂュナン)、高秀(コ・スチョル)、韓昌烈(ハン・チャンリョル)、卞基鍾(ピョン・ギヂョン)らをひきいて1912年11月に青年派一団を作ったのは分化の例である。分化はさらに頻繁となり、1917年頃には金陶山(キム・ドサン)が革新団から独立して藝星座系の俳優をひきいて改良団(ケリャンダン)を組織し、団成社で公演した後、地方巡回に発った。この劇団には女優金少珍(キム・ソヂン)がいて異彩をはなった。当時は女役も男が受け持つのが通例だったからである。金陶山は再び李敬煥、卞基鍾、羅孝鎭、徐在元(ソ・ヂェウォン)、金永徳(キム・ヨンドク)、韓撫~らをひきいて新劇座を結成し、やはり地方公演を行なった。

分化の例として、もうひとつは1917年に金小浪(本名金顕)が革新団から離脱して、李幸山(イ・ヘンサン)、金圭榮(キム・ギュヨン)、成光顯(ソン・グァンヒョン)、崔武敬(チェ・ムギョン)、崔汝煥(チェ・ヨファン)、白完鍾、李應秀らを糾合して聚星座(チソンヂャ)を組織したものがある。副団長格であり団長金小浪の妻であった馬豪政(マ・ホヂョン)がこの劇団最初の女優であり、ソウルの優美舘で公演したこともあった。以上、いくつか劇団の中から林聖九の革新団、金陶山の新劇座、金小浪の聚星座が持続したが、革新団は1921年11月20日団長林聖九が持病の胸廓患によって35歳を一期に死亡するやいなや創団10余年あまりで解散しており、新劇座も1922年に団長金陶山の死亡と同時に解散して、ただ聚星座のみが1920年代末期まで存続した。

さて、この間に生滅離合した劇団の演劇芸術に対する態度とその系譜を見ると、おおよそ二つに分けることができるであろう。ひとつは李人稙の円覚社から文秀星、唯一団、藝星座、朝鮮文芸団にいたる系列であり、これらの劇団の創立者である李人稙、尹白南、李基世らはすべて、日本留学中に韓国新演劇の正しい樹立のために新機軸を担おうという抱負を持って帰国した者たちであり、その指向するものは芸術的正統劇だった。もうひとつは林聖九の革新団から金陶山の改良団、新劇座、金小浪の聚星座にいたる系列で、自然発生的に起こった通俗劇だった。この書斎的芸術性と街頭的通俗性のふたつの潮流は以後の韓国演劇において時に交錯し、時に反発しながら前進したことを見てみよう。

2. 土月會前後

新演劇の導入期たる第一期に続いて、1920年から30年代は第二期にあたる。第一期以来の商業劇団による職業的演劇行動が継続する反面、啓蒙主義的あるいは理想主義的演劇活動が、間歇的ではあるが多少旺盛だった時期である。この時期の画期的なできごとである土月会(ト・ウォル・フェ=トウォレ:土月會)の発足は、韓国演劇に大きな影響を与えた。まず土月会出現の前哨というべきいくつかの動きから見ることにしよう。

2-1. 土月会の前哨

この時期に日本留学生たちの散発的な帰国公演があった。1921年、林世煕(イム・セヒ)を団長に洪海星(ホン・ヘソン)、金水山(キム・スサン)、趙抱石(チョ・ボソク)、馬海松(マ・ヘソン)、柳春變(ユ・チュナン)ら17名の留学生で組織された「同友巡廻演藝團」が夏期休暇中、趙抱石作『金英一の死』などを持って各地を巡回した。同年、開城の東京留学生で組織された「松京学會」の高韓承(コ・ハンスン)、孔鎭泰(コン・ヂンテ)、任英彬(イム・ヨンビン)、秦長變(チン・ヂャンソプ)、金興玉(キム・フンオク)らが、やはり夏期休暇中に開城座で公演したことなどがその一例である。松京学會は再び1923年11月にもその会員以外に馬海松や金永八らの賛助を得て、開城座で趙春光作『個性が目覚めたあと』と『アルト・ハイデルベルク』などを上演したことがある。

この間、静観していた李基世、尹白南もこのような風潮に再び刺激されたのか、李基世は1922年に李日宣(イ・イルソン)、李相弼(イ・サンピル)、朴承弼(パク・スンピル)、李彩田(女優イ・チェヂョン)、李素然(イ・テヨン)、金雨燕(イ・ウヨン)、安碩柱(アン・ソクチュ)などを集めて芸術協會を組織し、第3回公演からは芸術座と改称した。尹白南もやはり1922年に安鍾和(アン・ヂョンファ)、羅孝鎭、文秀一(ムン・スイル)、權勝武(クォン・スンム)、安光翊、權一晴(クォン・イルチョン)、宗海天(ソン・ヘチョン)、安世民(アン・セミン)などを団員とする民衆劇団を結成しており、その後には萬波會を組織した。芸術座と民衆劇団はソウルはもちろん、地方公演も行なった。この他に日本留学生崔承一(チェ・スンイル)を中心にした劇文會も1922年に生まれており、このとき咸興(ハムン:地名)では日本留学から戻ってきた学生たちが中心となって、池斗漢(チ・ドゥハン)、宗舜益(ソン・スンイク)、朴定木(パク・チョンモク)、羅雲奎(ナ・ウンギュ)の数人で組織した芸林會が東明劇場で公演し、満州の間島(カンド)地方にまで巡回した。

何よりも特記することは、島村抱月と松井須磨子がひきいる文芸座に加入して劇術を研究して帰国した玄哲(ヒョン・チョル:本名は玄禧運)が、1920年に芸術学院を創設したことである。1922年には朝鮮俳優学校に発展させて後進の養成に注力しながら、天道教會館で試演会を持つなど、意義ある事業を継続した。その門下に李綿龍(イ・ミョニョン)、王平(ワン・ピョン)、金亞夫(キム・アブ)、卜惠淑(ポク・ヘスク)などの演劇人を輩出した。韓国新演劇文化の樹立・発展において、玄哲は尹白南と李基世に比肩する際立った功労者であると言えよう。以上、1922年頃までの散発的ではあるがたゆまない試みは将来の土月会の発足を見ることになる前哨と言え、この前哨の試練が土月会の活動する素地を準備したと言えよう。

2-2. 土月会の出現

土月会は1922年11月に東京で発足し、1923年7月に演興社の後身である朝鮮劇場で歴史的な第1回公演を持った。この土月会の発足経緯と活動状況を詳しく見ると、発足当時の土月会は東京留学生朴勝喜(パク・スンヒ)、金基鎭(キム・ギヂン)、延鶴年(ヨン・ハンニョン)、李瑞求(イ・ソグ)、金復鎭(キム・ボクチン:金基鎭の兄)、朴勝木(パク・スンモク:朴勝喜の従兄弟)、李濟昶(イ・ヂェチャン)の7人が正会員であり、女流詩人金明淳(キム・ミョンスン)は客員格として、金乙漢(キム・ウラン)は幼少で正式会員にはなれないままに参加しており、李壽昌(イ・スチャン)は後に会員となった。

これは当初はひとつの文学同志会であったものが朴勝喜の発議で演劇団体として転換することを決議し、翌1923年3月から創立公演の準備に着手して、文芸誌「白潮」の同人安夕影(アン・ソギョン:本名安碩柱)や朴懐月(パク・フェウォル)らの賛助も得て、7月4日から5日間朝鮮劇場で朴勝喜作『吉植』、アントン・チェホフ『熊』、バーナード・ショー原作『オーロラ』、ユージン・ピロット『飢渇』などの一幕もの4編をもって歴史的な開幕となったのである。

この第1回公演は失敗に終わった。しかし壮志をいだいた青年演劇学徒たちはこの失敗に屈することなく、再起をもくろんで再び同志を広く国内に求めた。演技に李白水(イ・ベクス)、李素然、尹相烈、卜惠淑、石金星(ソク・クムソン)、文芸および演技に白潮同人である洪露雀(ホン・ノヂャク)、安夕影、羅稻香(ナ・ドヒャン)、装置に元雨田(ウォン・ウヂョン)と李承萬(イ・スンマン)、音楽に朴世免(パク・セミョン)と崔虎永(チェ・ホヨン)、洪載祐(ホン・ヂェウ)らがこれに加担・協調した。このような豪華な陣容でトルストイ『復活』やマイヤーピルスター『アルト・ハイデルベルク』、ストリンドベリ『債鬼』、第1回の時の『オーロラ』など、4編の翻訳劇をもって同年9月15日から7日間、やはり朝鮮劇場で開演して歴史的な大成功をおさめた。

土月会はその上演ものにおいて文学性を失わないように気を使っており、演技・台詞・装置・衣装・扮装など、全般にわたって充実を期そうとしたことから、従来の新派演劇に比べて写実味と新鮮味において驚異と受け止められたのである。この第2回公演で土月会は名声を博した。土月会が韓国演劇史上に重要な位置を占めることになったのは、この第2回公演の成功によるものである。第2回公演が終わったあと、金復鎭、金基鎭、延鶴年の三人が脱退し、第3回公演は朴勝喜と李白水が全責任を負って、1924年1月22日から3日間、基督教青年会館で公演を持った。しかし上演ものは散漫乱雑で舞台はしまりがなく、前回のような面目をいま一度見いだすことはできなかった。この第3回公演は失敗だった。

筆者は土月会を前後期に分けて、第3回公演までを前期とし、それ以後は後期と見ることにする。後期は土月会が専門劇団化した時期である。このときから土月会は光武台を一年間直営としながら長期興行を行なった。この時の土月会の陣容は朴勝喜を代表に、李白水、李素然、尹星畝、徐月影(ソ・ウォリョン)、廉唯一(ヨム・ユイル)、全一(チョン・イル)、李雲芳(イ・ウンバン)、李晋遠(イ・チニョン)、梁白明(ヤン・ベンミョン)、李容九、洪露雀、元雨田、徐一星、卜惠淑、石金星、尹心悳(ユン・シムドク)、權寧悳(クォン・ニョンドク)、李慶孫(イ・ギョンソン)、朴濟行(パク・チェヘン)らだった。光武台を直営して演劇を常設とした一年間のあいだに、朴勝喜の私財300石ばかりが全部消え去ったというから、韓国演劇界に捧げた彼の犠牲は大きかったと言えよう。光武台との契約期間が終わった後の土月会は、地方巡回に出てみたが、長く存続できなかった。

土月会のメンバーで劇団を組織したことが何回かあったが、すべて1〜2回の公演に終わった。すなわち土月会出身と新派系が合流して作った劇友會、1924年に金龍雀(キム・ヨンヂャク)と徐月影が組織した劇団春秋劇場、1927年に洪露雀、朴珍、李素然、尹星畝(ユン・ソンム)が組織した山有花會、延鶴年の斡旋で苦学生を中心にした総合芸術協會、1928年山有花會メンバーが再び組織した火鳥會などがそれらだ。

朴勝喜は1929年11月、土月会の再起をはかって讃映會(新聞記者李瑞求、濟象徳、鄭寅翼三人が組織した映画後援団体)と結託し、李白水、李素然ら、土月会の旧陣容を再び整えて朝鮮劇場で『アリラン峠』を上演して良い成果をあげた。その後は翌1930年2月に地方巡回にたっており、1932年春にはみなと座を直営にして劇団名を太陽劇場と改称した。しかしそこには土月会の昔の姿を見いだすことは難しかった。

2-3. その他の劇団

新派劇系は1926年、金昌俊(キム・チャンヂュン)、朴夏日(パク・ハイル)、金三守(キム・サムヂン)らが組織した演劇号(演劇號)があるが、主に地方を巡回しており、ひとり金小浪の聚星座のみが中央と地方をかわるがわるに巡回して、新派劇の命脈を維持した。このときの聚星座の陣容は金小浪を団長に、千漢秀(チョン・ハンス)、李敬煥、文秀一、羅孝鎭、成光顯、申英一、全景希(チョン・ギョンヒ)、馬豪政、金湖都是、李愛利秀(イ・アリス)、申銀鳳(シン・ウンボン)、李景雪(イ・ギョンソル)、羅品心(ナ・プンシム)らであった。最長寿の劇団として13年ほど存続してきた聚星座も、1929年12月にはとうとう解散し、続いてほとんど聚星座そのままの陣容で朝鮮研劇舎が発足して同年12月21日に第1回公演を団成社で持った。朝鮮研劇舎は毎月1回定期に団成社で公演を行なった。

研劇舎最盛期の陣容は池斗漢を専務に、李敬煥、姜弘植(カン・コンシク)、全景希、申不出(シン・ブルチュル)、卞基鍾、羅孝鎭、安世民、李鍾哲(イ・ヂョンチョル)、李元在、王平、金聖濟、任曙方(イム・ソバン)、申月星(シン・ウォルソン)、金警坤(キム ・キョンゴン)、趙天星(チョ・チョンソン)、卜元圭(ポク・ウォンギョ)、崔龍淳(チェ・ヨンスン)、申銀鳳、全玉(チョン・オク)、李景雪、羅品心、徐玉汀、池崔順(チ・チェスン)、池京順(チ・ギョンスン)、池季順(チ・ゲスン)、朴貞玉(パク・チョンオク)、李潤玉(イ・ユノク)、陳晶心(チン・チャンシム)、禹愛蓮(ウ・エリョン)らである。

このころ劇団が大衆の嗜好に迎合して、歌謡と寸劇を幕間に挿入することが始まり、聚星座も1927年に歌謡部を置いて寸劇俳優も抱き込んだこともあった。研劇舎ももちろんこの流儀を受け入れたが、このような風潮が結局1929年には歌劇を専門にする歌劇団を出現させた。權金星(クォン・グムソン)を中心にした金星オペラ団がそれである。金星オペラ団は1929年12月に權金星、金肇盛(キム・ヂョソン)、林生員(イム・センウォン)らが優美舘で初公演を行ない、翌1930年6月には地方巡回から戻ってきて三川歌劇団と改称して団成社で公演した。その陣容は主幹に金小浪、団長に權三川(クォン・サムチョン)、歌劇部に林生員、脚本部に申不出らがいた。

3. 劇研発足以後

韓国の本格的な近代劇運動の展開は劇芸術研究會(クゲスルヨングフェ:劇藝術研究會、以下劇研と記す)の発足で始まる。そして、その解散にいたる9年間(1931~39)は、新劇、商業劇、傾向劇、学生劇が最も活発だった、韓国新演劇前期の隆盛期である。

3-1. 劇研発足の前夜

ここで韓国の新演劇がどこまで来ておりどこへ向かうのかを明らかにするために、劇研発足の前年である1930年と翌1931年の前半にわたって劇界の動態を探ってみよう。

まず既成劇界としては1930年に土月会が年初にちらっと顔を見せたが地方に流れ、ただ朝鮮研劇舎と三川歌劇団が朝鮮劇場と団成社で活動した。他には成出(成光顯)、申不出らが中心となり劇団新舞臺を組織して、団成社で数次の公演を持っただけであり、1931年には4月に成出、李景雪、任曙方、文秀一が演劇市場を組織しており、この年の劇界は研劇舎と新舞臺と演劇市場の年となった。この他に4月に大衆劇場が、6月に世劇社がそれぞれ組織されるなど、群小劇団の明滅があった。

次に傾向劇においては1930年4月にKAPFの演劇部傘下に劇団移動式小型劇場とメガフォンを置き、9月にはみなと座新劇部の李白水、崔承一、羅雲奎、沈影、石金星らによってメルテン作『山』、シンクレア作『二階の若者』、オットー・ミューラー『荷車』などの傾向劇が上演されており、11月には大邱に街頭劇場が生まれた。傾向劇団はいち早く1923年に「焔群」が、1927年1月にプルケミ(やま蟻)劇団がそれぞれ組織されたことがあるが、一度も公演できないままに流産してしまった。同年7月中旬に組織された延鶴年の綜合芸術家協會も、11月公演の途中で警察の禁止令によって解散してしまった。その後はしばらく途絶えていたものの、1930年に至って再び台頭し始め、1931年に入ってからはその機運が濃厚になるにつれ、日本警察の監視と弾圧がひどくなっていった。しかし、3月には開城に大衆劇場が、4月には海州(ヘヂュ)に演劇工場が組織され、ソウルには4月に林和(イム・ファ)、安漠(アン・マク)、金南天、李圭咼、鄭龍山、申英、金兌鎭(キム・テヂン)、金形容、李貴禮、宋桂淑(ソン・ゲスク)らによって青服劇場が、6月にはウリドゥル劇場が生まれ、7月には元山(ウォンサン)の東方芸術座が朝鮮演劇工場に改新・改編された。

1930年11月11日から劇団新興劇場が、団成社で『牡丹燈記』を洪海星の演出で上演した。この公演は劇界の多くの期待を受けての上演だったが、結果は無残にも失敗に終わってしまった。ここで洪海星が劇団新興劇場を創立するまでの来歴を紹介する必要があるだろう。洪海星は早くから同志金水山と交流があり、後日お互いに手を組んで演劇運動を展開する目的で金水山は戯曲を研究し、洪海星は演出と演技を学ぶために1924年東京築地小劇場に入って鋭意演技練磨に注力していた。そんななかで、同志金水山が愛人尹心悳と玄界灘で情死するやいなや洪海星は孤独な立場となり、1930年6月に帰国した。8月28日尹白南、朴勝喜、李相和、李基世ら劇界の元老が洪海星を迎えて劇団京城小劇場を創設したが、李相和の出資が思うようにならず流産してしまい、洪海星は続いて開城の富豪高漢承(コ・ハンスン)の援助で劇団新興劇場を組織したのだった。しかし惜しくもその初公演に失敗してしまったのである。洪海星は失意に困窮が重なって、憂鬱な日々を送るほかなかった。以上のように1930年の劇界は沈滞と混乱と受難で暮れ、これはまた次の年にも続いていくのであった。

3-2. 劇芸術研究會の発足

1931年7月8日、劇芸術の研究と新劇樹立を目的に、金晋燮(キム・ヂンソプ)、徐恒錫(ソ・ハンソク)、柳致眞(ユ・チヂン)、尹白南、異河潤(イ・ハユン)、李軒求(イ・ホング)、張起悌(チャン・ギヂェ)、鄭寅變(チョン・インソプ)、曹喜淳(チョ・ヒスン)、崔挺宇(チェ・ヂョンウ)、咸大勲(ハム・デフン)、洪海星の12同人が典洞食堂に集まって劇芸術研究會を創立した。

この劇研の創立にいたるまでのいきさつはこうである。まず尹白南、洪海星、徐恒錫の三人のあいだに演劇映画展覧会を開こうという議論があった。洪海星が収蔵した築地小劇場の舞台写真など約2000点を主として展示して、国内の舞台写真・映画スチールと、仮面劇の仮面や衣装などの出品もすすめてみれば大規模の展覧会となるだろうし、韓国初のことであるので一般の呼応も大きいことが予想された。うまくいけばその収益で洪海星の生活も助けることができるだろうということが、動機のひとつでもあった。徐恒錫が在職した東亜日報社学芸部の後援で、東亜日報社三階の講堂を場所として使うことにし、劇映画同好會と名を掲げた。6月18日から一週間開かれたこの展覧会は、観覧者の数は少なく無かったが、収支面では予想どおりにはならなかった。しかしこの展覧会が機縁となって、劇研の誕生を見ることになったのは特記することである。すなわちこの展覧会に出品・陳列などで協力・参与した者たちが、展覧会の終了によってそのまま別れるのは惜しいとし、一次の会同があった後にとうとう上記のように劇研の創立を見たのだった。

創立同人12人中、劇界の元老尹白南と劇術の実際家洪海星以外はすべて新鋭の外国文学専攻者であることがひとつの異彩であった。1930年を前後にして日本の各大学で英・仏・独・露の文学を研鑽した彼らが、実力と抱負を持って帰国した。しかし彼らの抱負を実現に移す機会はほとんどふさがっていた。日帝下という骨肉の嘆きを克服できないでいたままの彼らが、ここに意欲の噴出口を発見したのだった。その清新と溌剌さにおいて、韓国新演劇にかつて類の無い出発だった。劇芸術研究會をして「演劇50年史」(韓国演劇大鑑)の筆者金京ト(キム・キョンオク)が評定したとおり、『韓国の近代劇を正しい理論上に確立して、西欧のそれと同じ方向で伝統化する始発であったと言える。けっきょく劇芸術研究會から韓国の近代劇の主流が形成されるのであり、現代に至るまで、劇芸術の正統はここから続いているのである』。

劇研は創立直後すぐに彼らが標榜する新劇樹立の基盤を整えるために活動を開始した。直属劇団である実驗舞臺(シロムムデ)を置く準備として研究生を募集し、女子短期講座も開いた。公演を持つための準備作業だった。ついに1932年5月4日から3日間、劇研究同人と研究生の総出演で実驗舞臺第一試演を持った。ゴーリキー原作・咸大勲訳『検察官』を、洪海星による演出で朝鮮劇場において開幕し画期的な成果をあげた。実驗舞臺第2回公演も朝鮮劇場で持ち、第3回からは劇研の公演のために修繕した京城公會堂に移った。劇研の公演は回を重ねるごとに反応が良くなった。第6回公演の時を期して、機関紙「劇芸術」も創刊した。

3-3. 東洋劇場の創設

1935年11月は演劇人の宿願であった演劇常設劇場として東洋劇場が新築開館した月であり、劇研が第8回公演を契機に、従来の翻訳劇を主としたものから創作劇中心に転換する劇研活動の第二期が始まった月である。そして、これから加重されてゆく演劇・映画統制の始発点とする月でもあった。このようなことからこの月は特記するべき時点だ。

東洋劇場は平壌(ピョンヤン:地名)出身の有志洪淳彦によって新築なった演劇専門劇場である。この劇場は演劇を常設するために専属劇団を置いて、団員の報酬は従来の日給あるいは無給制度をやめて月給制度を新設した。このことから演劇人が東洋劇場に多く集まることになった。劇研の創立同人で劇研の演出をほとんど全部を受け持っていた洪海星も、その長い生活苦に疲れて東洋劇場に移ってしまった。

当時の東洋劇場の陣容は、社長に洪淳彦、支配人に崔象徳、文芸部に崔象徳、李瑞求、李雲芳、金健、演出部に洪海星、朴珍(パク・チン)、安鍾和、装置部に金雲善(キム・ウンソン)、鄭泰星(チョン・テソン)、元雨田、演技部にはユ・ヌンハン、男女俳優は多士済々の感があった。東洋劇場は専属劇団としてはじめは青春座、喜劇座、東劇座の三つを置いたが、しばらくして喜劇座と東劇座を合同して豪華船と命名した。

これら専属劇団が劇場で公演を持った次にはすぐ地方に出て、互いにかわるがわるいったりきたりしており、劇場と劇団のすべてが年中無休だった。東洋劇場はその専属劇団を通じて多くの作品を上演したが、その演劇は興行を無視できなかったので、大衆に迎合するほかなかった。こうしてそれらのいわゆる「高等新派」は芸術的観点から見るとき、高く評価されることはなかった。しかし東洋劇場はこの地に於ける専門劇場の存立と演劇の企業化と演劇人の生活安定が可能であることを立証しており、その舞台を通じて才能ある新人を輩出したので、東洋劇場が劇界に寄与した功績は過小評価できない。東洋劇場がその専属劇団に優秀な演劇人を多く包摂し、劇界の様相が変わった感が無くは無いが、興行劇界には依然として多くの劇団がうごめいていた。新舞臺、黄金座、演劇號、芸苑座、演劇市場、太陽劇場などがそれである。

3-4. 劇研の前進

東洋劇場が創設され洪海星が劇研から離れたとき、この間日本に行き2年間ほど演劇修業中だった柳致眞が戻ってきた。劇研は第8回公演で1935年11月19日から2日間、京城公會堂で李無影作『真昼に夢を見る人々』、柳致眞作『祭祀』ほか翻訳劇一幕を柳致眞演出で上演しており、この公演を契機にしてこれから創作劇を中心にしてゆく方針を立てた。これは30年代に以前の西欧様式模倣の時代を画して民族演劇樹立の方向に転換させようというものである。

これは劇研としては一段の前進であり、ここから劇研の活動は第2期に入っていくのである。劇研はこれ以前には柳致眞作『土幕』『柳のある村の風景』の2作品を上演したのみだったのであるが、これ以降は李無影作『無料治病術』、李光來作『村先生』、李曙郷作『オモニ』、柳致眞作『姉妹』『春香伝』『豊年記』、金鎭壽作『道』、咸世徳作『道念』など、創作劇を上演したのだった。このように上演ものにおいて創作劇中心とするのみならず、演劇行動においても専門劇団として前進することを指標にした。期待と希望に満ちた第二期だった。この頃に東京の学生芸術座員が帰国・合流することをもって、劇研の陣容はさらに強化された。

いっぽう1937年6月23日から4日間、劇団中央舞臺が府民館でピランデッロ作『しなのきの実が熟すとき』と宗影作『ばか張斗越』で創立公演を持った。中央舞臺は青春座を脱退した朴濟行、沈影、徐月影、南宮仙らと劇研の孟晩植(メン・マンシク)、宋在魯と卜惠淑らが中心となって、いわゆる中間劇を標榜した劇団である。中間劇とは新劇と興行劇の中間を行く劇を意味するのだとした。すなわち劇研流の新劇でも無く、東洋劇場流の高等新派でもない劇をいうものである。興行劇の浄化と向上を叫んできた劇研から見れば、中間劇は興行劇をある程度引き上げたことになることからやりがいを感じることではあるが、実際における中間劇の正体は興行劇の擬態に過ぎなかった。

3-5. 劇研の受難

日帝の弾圧で劇研の機関紙「劇芸術」は第5号で停刊となった。日帝は劇芸術研究會に対して機関誌発行を弾圧するにとどまらず、畢竟劇芸術研究會の研究会という三文字が不穏思想の表象であるとし、これを取って「座」をくっつけよと強要した。これは劇芸術研究會をその「會」自身が蔑視している興行に重きを置いた新派劇団と同列に格下しようということだった。このように新劇樹立を目標に、創立以来8年間に正規公演17回の闘争記録を持つ劇芸術研究會は、1938年3月とうとう劇研座と改称しなければならなくなった。しかし日帝の抑圧は改称をもってしても緩和されることなく、翌1939年5月13日には劇研座まで解散しろという命令が下った。創立以来、劇研座改称以後まで9年間にわたって朝鮮劇場、京城公會堂、培材講堂、東洋劇場、府民館で正規の24回公演と、三南水害救済公演および2次の東亜日報主催演劇競演大会の参加で総27回の公演記録を持った劇芸術研究會はここに解体してしまった。

劇芸術研究會の陣容は創立同人以外に金光燮、朴龍吉が同人に追加されており、解体するまでの9年間に参与した会員は申泰善(シン・テソン)、崔鳳則、李無影、崔永秀(チェ・ヨンス)、尹石重、毛允淑(モ・ユンスク)、盧天命、金福鎭、鄭徳仁(チョン・ドギン)、趙芝海(チョ・ヂネ)、趙薫海、尹星畝、尹泰林(ユン・テリム)、李雄(イ・ウン)、孟晩植、申桂民、宋在魯、金映玉(キム・ヨンオク)、金貞淑(キム・ヂョンスク)、李石薫、姜聖範(カン・ソンボム)、金貞桓(キム・ヂョンファン)、高長煥、金鎭壽、姜貞愛(カン・ヂョンエ)、呉愛葉、金一英、申左覬(シン・ヂャヒョン)、金汀岸、兪健穆(ユ・ゴンモク)、馬春曙、申百秀(シン・ベクス)、殷鎭杓(ウン・ヂンピョ)、李海南(イ・ヘナム)、金暁愛、金鎭淑(キム・ヂンスク)、沈玉庚、張瑞彦、柳義卓、宋珍根、李義春、李鍾一、許南實(ホ・ナンシル)、朴東根、金東園、李海浪、李眞淳、漢英基(ハン・ヨンギ)、李容圭(イ・ヨンギュ)、尹芳一、李光來(イ・グァンネ)、蔡廷根、兪亭穆、黄土水、朴学善(パク・ハクソン)、金健、朴商翊、玄芝渉(ヒョン・ヂソプ)、太乙民(テ・ウルミン)、南宮仙、李白山(イ・ベクサム)、呉貞三(オ・ヂョンサム)らだった。

日帝の弾圧によって劇研は改名を経て解散してしまったが、いっぽう1938年には傾向的な劇団浪漫座が登場して高協(コヒョプ)、星群が発足している。1939年には東洋劇場の経営者が代わって、その陣容の一部たる崔象徳、朴珍、梁白明、徐一星、黄K、車紅女らが脱退して新しく阿娘を結成し、この他に李ウォンチョル、河之満の國民座も組織され、劇界は劇団の乱立であわただしかった。

4. 国民劇の強要

1939年5月に劇芸術研究會の改称と劇研座まで強制的に解散させたのは、日帝が彼らのいわゆる「新体制」を劇界に強要しようという警鐘の一番打であった。軍国主義日本によって挑発された満州事変・日中戦争が太平洋戦争に、世界大戦に拡大されてゆくなか、演劇も戦争に対する協力を強要されるほかなかった。このように劇団を公認し、俳優を登録するいっぽう、国民演劇というスローガンを掲げ、いままでの興行劇、研究劇(新劇)、傾向劇、中間劇など、いくつものジャンルの演劇を一色に塗りつぶしてしまおうということに至った。ここに1940年から8.15解放に至る約5年間、日帝がこの地の演劇に加えた断末魔の悪発想を告発することにする。

このころの日本の対韓政策は弾圧と皇民化一路で駆け抜け、言語を抹殺し、氏名を改創するなど極悪を振るい、ついには演劇にまで手をかけて、1940年末には強制によって朝鮮演劇協會を結成させ、これによってすべての劇団を統制させた。この演劇協會は日帝の完全な走狗として、演劇人の国民的自覚の涵養と国民演劇の創造というもっともらしい綱領を掲げ、八紘一宇や大東亜共栄圏とやら言う、彼らの侵略戦争が標榜する理念を強要すると同時に、日本語劇を奨励し、民族文化を根こそぎ摘んでしまおうという一挙両得的奸策の手先となった。日帝はまた、その当時ひとしきり旺盛だった楽劇団を、号令の下に演劇協會と同一の綱領で朝鮮演芸協會を結成させた。

1941年3月16日に劇団現代劇場が発足した。柳致眞を代表に、咸大勲、徐恒錫、朱永渉、李源庚(イ・ウォンギョン)、李白水、全玉、劉桂仙、金陽春、金信哉らがこれに参加した。これは劇究解散後、その幹部会員に対する日帝の圧力によって作られたひとつの御用劇団だった。この劇団によって柳致眞作『黒龍江』『北進隊』などが上演されているが、いまでは挙論したくない作品である。

1942年7月には16個劇団を持つ朝鮮演劇協會と、11個楽劇団を持った朝鮮演芸協會を合わせて朝鮮演劇文化協會を形成させた。これは芸能統制の一元的強化を意味するものである。朝鮮演劇文化協會は1942年秋に朝鮮総督府情報課、朝鮮軍報道部、國民総力朝鮮聯盟、京城日報、毎日新報の後援で、演劇競演大会第1回を府民館で催した。これに参加した劇団は現代劇場、阿娘、高協、星群、青春座の5個団体で、星群の朴英縞作『サンテヂ』、阿娘の金兌鎭作『幸福への啓示』、現代劇場の柳致眞作『棗(なつめ)の木』、高協の林仙圭作『氷花』、青春座の宋影作『山パラム』などの作品は、すべてそれぞれの日帝理念の露出を競争させたことに違いなかったし、これが朝鮮演劇文化協會が競演を主催した目的であったのである。この競演の第2回がやはり府民館で開かれており、参加劇団は太陽劇団、芸苑座、黄金座を加えた8個劇団だった。

日帝はこのように極めて旺盛ではあったが、結局は敗北の日が来た。1945年8月15日! 彼らの敗亡の日は我々の解放の日だ。36年間、日帝の骨身に染みた暴政下で呻吟していた韓民族が「8.15解放」で祖国を取り戻し、母国語をよみがえらせた。ここに喜びに満ちた新しい歴史が始まるのであり、演劇界もその本意ではなかった反動路線を清算し、新しい道に立つ時が来たのである。ここで拙稿を終えながら、最後に学生劇は韓国演劇史上におけるひとつの前衛部隊、あるいは後続部隊としての活動で重要視されてきたにもかかわらず、紙面関係で言及できなかったことを付記する。

© 徐恒錫(ソ・ハンソク)&韓国文化芸術振興院 / 翻訳 岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)