8・15解放から1975年までの演劇概観 呂石基(ヨ・ソッキ)
「演劇年鑑」は韓国文芸振興院発行の「文芸年鑑」から演劇部分を抜粋して翻訳したものです。著作権は著者と韓国文化芸術振興院にあり、翻訳の責任は岡本にあります。

この章は"8・15(パリロ)解放"から1951年6月25日の"6.25(ユギオ)"を経て、1975年までの韓国演劇を概観したものです。文中の演劇作品名は韓国語をそのまま翻訳しており、日本での作品呼称との照らし合わせは行っておりません。

1. 8・15解放(パリロ)から6・25(ユギオ)まで
2.1950年代
3.1960年代
4.1960年以降

1. 8・15解放(パリロ)から6・25(ユギオ)まで

"8・15解放"(1945年8月15日)とともに、まず最初に行動を開始した文化活動のひとつが演劇だった。解放の感激がいまだ覚めやらない8月20日にもう全国演劇人大会が開催されており、その集まりで明日の演劇活動の方向とともに、日帝の遺産である朝鮮演劇文化協会を接収する問題が提言された。このとき主導的役割を担った勢力は左翼演劇人たちであり、彼らによって"演劇建設本部"が逸早く左翼一色で構成された。そしてそれが発展的解体を経て組織されたものが"朝鮮演劇同盟"だった。総じてこの時期の文化活動全般にわたって優勢な活動を見せたものは左派芸術家たちであり、それらに同調する勢力であった。彼らが特に組織力において優勢だったので、演劇同盟は解放とともに雨後のたけのこのように結成された大多数の劇団を、その傘下に吸収することに成功したのだった。

この頃に生まれた劇団をあげてみると、東洋劇場系の青春座・豪華船等を改編して作った自由劇場、阿娘の後身である楽浪劇會、太陽劇場が改編された朝鮮芸術劇場、その他には新興新鋭たちで構成された劇団青葡萄、極左的集団たる革命劇場・一五劇場・ソウル芸術劇場等があった。これら左系に属する劇団は解放直後から演劇界の主導権をとり、1947年初まで粘り強く活動を続けた。たとえば解放の次の年である1946年の「三一節記念演劇大会」にソウル芸術劇場・自由劇場・革命劇場等などが参加しており、翌年の1947年の同大会には、楽浪劇会・自由劇場・民衆劇場が合同で咸世徳(ハム・セドク)の『太白山脈』を、芸術劇場・文化劇場・民衆劇場等がやはり合同で趙靈出(チョ・ヨンチュル)作『偉大な愛』を公演した。この系列で活躍した主要メンバーとしては劇作家の咸世徳・趙靈出・朴英鎬(パク・ヨンホ)、演出家としては李曙郷(イ・ソヒャン)・安英一(アン・ヨンイル)・朴春明(パク・チュンミョン)、装置家としては金一影(キム・イリョン)などをあげることができる。

このような状況の中で演劇同盟がひきいる左派演劇に対抗し、民族主義路線を標榜した最初の劇団として、李光来(イ・グァンネ)を中心に結成された民族芸術舞台がある(1945年10月)。この他にも小劇場運動を掲げて発足した劇団全線(李賦q・李海浪・金東園・尹芳一等)、芸苑座の後身である青春劇場や再建された土月会等がこの系列に属していたが、その勢力は大きいものではなかった。朴珍(パク・チン)の回想どおり、「それぞれに透徹した思想があってではなく、批判する余地も無く流行病的小児病にかかって共産主義者然とすることを進歩的なことのように思い - 皆が左翼的演劇をおこなわなければ羽振りをきかせることができなかった」(『歳歳年年』1966刊)という当時の事情が、民族陣営の演劇人たちにはひどく不利だったのだ。

1946年初、いわゆる信託統治の賛否をめぐって左右の分裂が決定的になっていくにつれ、民族主義的演劇運動が徐々に芽生え始めた。5月にはこの間沈黙を守っていた柳致眞(ユ・チヂン)を中心に劇芸術研究会が再建された。いっぽう、1946年末頃から1947年にかけて、米軍政庁による左翼政治勢力の除去作業は文化界にも及んだ。1947年3月末にあった左翼芸術家の粛正によって、左翼劇団は解体・分散したり地下にもぐったりしたが、一部は転向あるいは越北するに至った。そのようなさなかに李海浪(イ・ヘラン)・金東園(キム・ドンウォン)・李化三(イ・フェサム)らが中心になって新しい劇団組織をもつに至ったが、これが6.25(ユギオ)動乱にいたるまで民族陣営演劇の主軸を成して活動することになった劇芸術協会(略して劇協)である。

彼らは劇協を結成するに先立って、演劇同盟が主催した第2回"三一演劇祭"に柳致眞昨『祖国』を以て参加しており、劇芸術研究会の新劇精神を下敷きに、純粋演劇・民族演劇を樹立することを誓って新しい集まりを結成することに至ったのだった。この劇団は顧問格として柳致眞を迎えることになるが、創立を兼ねた第2回公演にもやはり柳致眞の『自鳴鼓』、3回公演の時も同じ作家の『麻衣太子』を選択する等、柳致眞脚本による公演を継続した。このように一人の作家による劇団の性格形成はかなり特徴的なことであり、その関係は劇協の後身である劇団新協(ユギオ以後)との関係においても継続されることになったが、この時期に書かれた柳致眞の一連の作品が歴史劇であれ現代劇であるを問わず、愛国的・民族主義的色彩が強かった点を勘案すれば、この演劇団体の性格を斟酌できよう。

左派演劇の退潮に時を同じくして、1947年10月に民族陣営演劇人たちの集まりが持たれた。はじめは全国演劇芸術協会という名称で、劇協・新青年・青春劇場・豪華船・黄金座等、いくつかの劇団がその傘下に入っていたが、すぐさま韓国舞台芸術院(韓国舞臺藝術院)と改称した。歴史的な5.10総選挙(1948) [訳注:1948年の制憲国会を召集するための国会議員選挙] のときは傘下の21個劇団を動員し、文化啓蒙ついでに地方巡演を行う等、功績も無くはなかった。しかし大韓民国政府の樹立とともに、演劇においての左右闘争の混乱は完全に無くなることとなった代わりに、興行と関連した新しい問題が台頭した。すなわち政府樹立の少し前の、この年5月に米軍政は劇場入場税を従前の3割から10割に大幅引き上げを断行したのだった。このような税法改正の措置によって、演劇は存廃の危機を迎えることになってしまい、せっかくの演劇復興の契機は消失してしまった。あわせて商業主義演劇の台頭に拍車を加える結果となった。

興行を芸術に先行させるこの系列の演劇活動としては、1945年10月に発足した青春劇場と、その次の年の5月に再建された黄金座が双璧を成しており、前者は1954年までの10年近く存続して、深く新派的大衆劇を浸透させた。この劇団がユギオにいたるまで4年半のあいだに公演した回数はソウルのみでも61回ほどを記録しているが、新劇系の代表格である劇協の19回公演と比較して見るとその差ははっきりしている。黄金座の場合もやはりユギオまでの4年間、中央でのみ54回を記録する大同小異の傾向を見せている。このような数字はおそらく毎日一回以上公演した記録となるものであり、韓国観客の演劇熱(質とはいったん関係なく)をよくあらわしている。

これらの劇団のレパートリーは愛と涙にあふれる感傷調の内容が大部分であり、青春劇場の場合は金春光(キム・チュングァン)が全作品の半分以上を、黄金座のばあいは全体の約7割を青草生(チョン・チョセン)が書いたものだった。そしてその中の大多数が史劇ないし時代劇という事実は注目すべきだが、荒唐無稽な野史の講談調が強くて哀愁に流れる点は、演劇が(いくら大衆劇といっても)現実との連係を断絶してしまうという脆弱性を帯びた。このような脆弱性はこの時期、すなわち4年あまりの期間に100を越す商業劇団が生まれて消えたという事実にもやはりその一面を見ることができる。

政府樹立以後の演劇界でもっとも大きい功績は国立劇場の設置である。この問題が最初挙論されたのは1946年1月であったが、その年の3月には徐恒錫(ソ・ハンソク)を劇場長として演劇・映画・歌劇・舞踊等の5個分科をおいた国立劇場が発足するであろうという報道まであり、早期設立を訴求する建議書が軍政長官に提出される動きまであった。しかし、諸般の事情から政府樹立以後に持ち越されたのだった。そのようなことが1949年初になって本格的に世論化し、その年の10月18日、大統領令で国立劇場職制が公布されることに至った。初代国立劇場長に柳致眞が任命され、場所は旧府民館に落着を見た。

新しい国立劇場が正式に活動を開始したのは1950年初に入ってからで、従前の劇場のほかに新しく組織された新劇協議会(新協)が発足し、その二つの団体を国立劇場の専属劇団とする交替制公演の運営方法が整えられた。その年の4月に国立劇場設置法が国会を通過し、劇場内部も修理して、特別会計による運営の基礎ができ上がった。このように画期的な演劇中興の機会を迎えて、演劇界も最大に呼応しており、その年の4月30日に柳致眞作『元述郎』でその華麗な幕をあけたのだった。続いて6月6日から始まった第二回公演は曹禺(チョ・ウ)作『雷雨』で、ふたつながら大好評を受けており、5万名以上の観客を動員する記録的成果を収めることになった。しかしその後に起こったユギオの惨変は、演劇界にもほとんど再起不能なほどの打撃を与えており、まっさきに基盤を整えた国立劇場の活動にも致命打を加えた。

この時期にひとつふたつ記録しておくこととして、ひとつは女人小劇場の活動をあげることができる。1948年10月に創立公演を持ち、7回の公演を持っており、翻訳劇主体のレパートリーが特色で新鮮さを見せた。いまひとつは大学演劇活動である。解放後、いくつかの大学で学内演劇サークルが活発になり、ソウル大・高麗大・延禧大・成均館大・梨花大・中央大・セブランス医大・東国大等の学校で演劇活動が継続しており、それに従事したメンバーたちが50年代後半に、韓国演劇の次の世代を構築する核心を成したということはとても重要である。これらがこの時期に持った大学演劇競演大会等は一般的に好評を博した。

2.1950年代

解放からユギオまでの5年間は混乱と未整理の時期だったとすれば、ユギオから「4.19義挙」に至る1950年代の10年間もやはり文化的開花のための好適な時期とはならなかった。この10年間の前半は戦争の惨禍とそこからの力に余る回復の期間であったために、文化芸術に未だ目を向ける暇も無く、後半の5年間は新しい発展のために跳躍するに充分な活力を蓄積する余裕を持てなかった期間だった。特に演劇界においての場合、基礎を整えて正常な発展を約束されたところへユギオが起こり、人的資源の分散と脱落が顕著だった。ユギオ以前にすでに左右分裂によって少なく無い数の演劇人が越北・離脱していたのが、北韓の南侵で拍車がかかり、首都ソウルの機能麻痺によって公演場所が激減しており、避難地生活の経済的逼迫と生活不安が観客層を顕著に減少させてしまった。そのうえ弱り目に崇り目で、外国映画の量的浸透が本格化し、演劇が拠って立つことのできる余地はさらにせばまっていた。

この時期に特に目についた現象は、商業演劇の退潮にみることができる。新演劇が始まって以降、大衆の情緒文化の騎手を勤めてきた商業演劇は、新派劇という名称のもとで多くの観客源を確保してきたが、50年代に入って映画および放送の新興媒体にその役割を譲るほかない窮地へ陥ったのだった。ユギオ以前の代表的存在であった青春劇場・黄金座等は戦乱とともにその活動の拠り所を失っており、50年代前半に活動した劇団阿娘のような少数の例外があるにはあるが、大勢はすでに傾いて、戦乱に揉まれた民衆の低俗な情緒をたやすく刺激させることができた楽劇団・唱劇団側に移っていた。そして、それらすらも映画や放送等、新興大衆媒体が本格的に定着するにいたる50年代後半に入っては、行方をくらます他無い立場に置かれた。

だいたいに1955年頃から始まった国産映画製作ブームは、時まさに『春香伝』(李圭煥監督)開封を契機に本格化しており、1957年に韓国最初の連続放送劇『青シル紅シル』(趙南史脚本)のヒットとあわせて放送ドラマの全盛期を迎えることとなった。このような新興媒体の台頭が大衆演劇の観客を奪っていき、その余波で新劇系列を固守してきた正統演劇にも直接間接に影響を与えずにはおかなかったのだ。既成演技者の離脱はもちろん、新しい劇作家の養成にもむしろ難関として作用しており、観客の足が遠のいたことにも少なく無い影響を与えたと思える。したがってこの時期の演劇活動は解放初期の乱立相とは異なり、零細性を免れなかったところにその性格をうかがうことができ、ユギオ以後の社会変化と加速化した海外演劇との接触過程で、自己調整をするところにあくせくしなければならなくなった。

50年代にもっとも活発に活動した劇団としてはまず劇団新協をあげるべきだろう。解放前、韓国新劇の正統嫡系であると言える劇芸術研究会の脈を受け継ぎ、1947年に劇芸術協会(劇協)として発足し、1950年に国立劇場専属劇団としてデビューした新協は李海浪・金東園を主軸にして、1951年2月には避難地である大邱の文化劇場で逸早く公演を持った。続いて3月、8月、11月に釜山で引き続き公演を持ち、再び大邱で公演を行っており、その意欲的な活動に注目するほかない。さらにレパートリー面で見ても、最初は『自鳴鼓』『星』など柳致眞の創作劇を、のちには翻訳劇で『雷雨』を再上演してすぐさまシェークスピアの古典『ハムレット』とサルトルの新作『赤い手袋』に手をつけたその旺盛な活動力を高く評価しなくてはならない。

このように活動を開始した新協は、1960年までの10年のあいだに50余回の公演を持つこととなった。この間に、首都で復帰した国立劇場に吸収された一時期があるにはあるが、一貫して劇団自体の性格と団結を維持してきたと言える。この期間中の新協の活動を区分してみるならば、1953年初頭のソウル復帰までの地方での公演成果が、さまざまな悪条件にもかかわらず、シェークスピアの悲劇公演を含んで注目するところがあった。その後1955年までの一時期は低調だったが、その年の8月以降は現代米国劇作家オニールやテネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラー等の作品に手をつけながら再び活気を呈した。

新協の公演作品はだいたい創作劇と翻訳劇の比率が半々であり、創作劇のなかで圧倒的に大きな割合を占めたのは柳致眞の作品(13編)であり、そのあとに呉泳鎭(オ・ヨンヂン)・尹芳一(ユン・バンイル)各3編等の作品が続く。新人としては任煕宰(イム・ヒヂェ)の作品が含まれている程度だ。いっぽう翻訳劇としてはもっとも多いのが現代米国戯曲(12編)であり、シェークスピア悲劇(4編)がその中に含まれている。新協は劇団経営において堅実さを特色とした。レパートリー面でも柳致眞のような特定作家の戯曲に依存することをもって危機負担を免れることができ、演技アンサンブルの維持を比較的安全にしておくかわり、芸術的意欲と表現力量の沈滞を招きやすい弱点を抱いていた。特に新しい作家の養成をそこつにしたという点は、理由如何にかかわらず韓国演劇の前進を阻む結果を招いた。しかし、とにかく新協が50年代の韓国演劇に占めた比重は絶対的であると言うことができ、新しい世代の演劇活動が新協を批判・克服しようとするところから出発したという事実ひとつを見てもその位置を斟酌できる。新協がユギオ直後から着実に活躍した期間、国立劇場は有名無実の存在のまま残されていた。しかし1953年2月に避難地の大邱でふたたび開館することになって、新しい劇場長として徐恒錫が就任した。しかし専属劇団をおく余裕も無く、おもに劇団新青年(代表:朴景柱)と劇団民劇(代表:李源庚)をいつも利用した。

国立劇場の不振の原因のひとつは、ソウルでの復帰が簡単に成されなかったところにある。それが実現したのは1957年6月であり、当時これを管理していた文教部の芸術行政がどれほど非能率的であったかをたやすく知ることができる。とにかくソウルに復帰した国立劇場は、市公館を借りて使う方式で公演場所を確保しており、劇団新協を全員吸収して専属劇団たる国立劇団を組織、1957年7月に初演を持った。しかし同年12月に新協はふたたび離脱してしまい、1959年に復帰して、今回は劇団民劇(代表:朴珍)とともに二つの専属劇団として分立するにいたった。文教部傘下機関として一般会計予算による運営方法を採った国立劇場は、平均年6回以上という公演実績をあげており、懸賞公募その他を通じて新人劇作家(河有祥・金洪坤・李容燦)を登用した功績も無視できない。そして人材の教育・養成のために研究生制度を運用し、少なからず輩出した。しかし官僚的制約と企画の貧困さによって、相当の活動実績にもかかわらず、集約的成果をあげることができず無気力だという一般的な印象を与えた。

このような既成演劇の動きとは別に、50年代後半に入るやいなや演劇界の新芽が芽吹き始めたが、その代表的な存在が制作劇会だった。1956年6月に結成されたこの集まりは一団の新人たちの集合体として、「ほんとうの現代劇様式」の制作を目標に、既成演劇に対する挑戦の姿勢をはっきりと掲げながら発足した。金京ト(キム・キョンオク)・車凡錫(チャ・ボンソク)・呉史良(オ・サリャン)・崔彰鳳(チェ・ヂャンボン)・趙東華(チョ・ドンファ)等、創立に参与した同人たちは大部分が大学劇界出身の新進気鋭たちであり、沈滞していた劇界に新風を導入する先鋒に立った。彼らは当面した目標として反新協路線を標榜しており、作品と演出で新しい皮袋に新しい酒を満たすという決意を表明した。

制作劇会が公演したレパートリーを見ると、車凡錫・金京トなど同人たちの創作劇に依存しており、翻訳劇としてはT・ウイリアムズの『ガラスの動物園』、J・オズボーンの『怒りをこめてふり返れ』等の新しい現代劇を採択した。しかし演劇史的見地から見るとき、それ自体の成果よりも60年代をひらく先駆的存在として同人劇団の始発だったという点、劇界の新しい世代を大量に輩出させたという点、現代演劇に対する新しい感覚を帯びたという点などでより大きい評価を受けることと思える。また前述した作家たちのほかにも金玄林・朴賢淑(パク・ヒョンスク)のような劇作家、許圭(ホ・ギュ)のような演出家、李杜鉉(イ・ドゥヒョン)のような演劇学者がすべて制作劇会出身者である。制作劇会以前にも同人制劇団として1953年にすでに延禧大学出身者が主軸になった「テアトルリーブル」があり、職業制を排除した実験舞台を試図したことがあったが短命に終わっており、その影響力も制作劇会ほどには及ばなかった。

この時期に論じられたこととして公演場所の問題があった。市公館を借りている国立劇場以外には公演場が皆無だったと言っても過言ではなかったため、演劇専用の場を切望する世論が高まっていた。特に1960年近くになって芽生え始めた小劇場運動にとって最も不足したものが公演場だったところへ、1959年に公報部斡旋で乙支路入口に小劇場円覚社(圓覺社)ができたことはとても鼓舞的だった。制作劇会の他にも八月劇場・圓方角・ヘップル(かがり火)劇会等、時を同じくしてできたいくつかの小劇場と、比較的活発だった各大学劇界がここを利用することで、韓国の若い演劇はいま再び活気を見いだしたかのようだった。この建物は惜しくも1960年に火災で消失してしまったが、円覚社は当時の我が国劇界にあっての重要性は単純に建物以上のものだったと言える。とにかくあれこれと趨勢が相互作用して、新しい時代を開く機運が成熟することとなっていた。

この時期、特に50年代後半になって大学演劇が活発になっていた。そこで活躍していた一部が60年代初に入ってから、同人制劇団が台頭する時期に人材供給源としての役割を担った。そして大学の正規学科として演劇学科が我が国最初に設置されたこともこの時期のことだが、1959年以後年ごとに中央大・東国大等に演劇学科が生まれた。これとあわせて演劇を通じた国際交流がこの時期に成された。1955年に李海浪が米国務省招請で米国演劇界を見学し、次の年には柳致眞がロックフェラー財団の招請で欧米演劇界視察に出た。このような交流活動の結果として、1958年1月に国際劇芸術協会(I.T.I.)韓国本部が結成されており、次の年に同協会第8回国際大会(ヘルシンキ)に韓国を代表して柳致眞・呉泳鎭・朴石人(パク・ソギン)の三人が参加した。沈滞の50年代もあれこれ新しい機運が芽生えるなかに暮れて行った。

3.1960年以後(上)

50年代末に芽生え始めた新しい機運は、60年代に入ってから二つの方向に劇界を再編する結果となった。そのひとつは国立劇場の再出発とドラマセンター設立に要約される既成演劇勢力の再整備であり、もうひとつは新人たちを中心にした同人制劇団の開花だ。

このような趨勢は1975年現在に至るまで大きな変化も無く持続してきたと思われるので、この二つを別々にして、年度別に考察するのが便利であろう。しかしこの二つを既成と新進の典型的対立と解釈するには50年代(あるいはそれ以前の)から継承されてきた既成演劇の命脈があまりにも脆弱だったので、60年代以後の韓国演劇は一見したところ、すべてが新しく出発したかのような感じさえも与える。まず国立劇場から話を始めよう。

"5・16革命" [訳注:朴正煕少将による軍事クーデター.現在では5・16軍事政変と称する] 直後の1961年10月に、当時の軍事政府は政府組織法と国立劇場設置法を改定し、従来文教部所管下にあった国立劇場を公報部(現在の文化公報部)に移管し、いままで貸与形式で使用してきた市公館を正式に国立劇場専用建物として使用させた。国立劇場はその運営体たる劇場とともに、建物としての劇場を確保することになった。これは公演芸術においてとても重要なことであり、国立劇場を再構成する基本要件のひとつを充足させたわけだ。

再出発した国立劇場は専属劇団運営規定を設け、それまでの新協・民劇による双頭体制に終止符を打って、劇団以外にもオペラ・バレー・舞踊・国劇等、公演芸術の各部門にわたって専属団体の幅を広げた。そして従前の民間からの劇場長起用をやめ、公務員で代替する方式を採った。これとともに劇場内部も改善し、公演場所としての優雅な雰囲気を維持することに成功した。運営方式はだいたい自主公演と貸館の二つに大別できるが、自主公演の種類や回数がそれ以前に比べて増加したことは言うまでも無い。おもに演劇・音楽・舞踊等の公演芸術の固有分野にのみ限って低廉な料金で貸館したために、結果的に民間・在野芸術を育成する功績を上げたことは看過できない。しかし反面、演劇団体が国立劇場の建物のみをほとんど唯一の場所として依存してきた結果が、60年代の劇団活動・公演活動を画一化させた点もあるいは指摘せざるを得ない。

再発足した国立劇場が1962年初から1973年に獎忠洞の新しい建物に移るまでに上演した作品の総数は41編に達した。毎年平均4編ずつ公演した勘定であり、その内わけは創作劇が33編であるに反して翻訳劇は8編に過ぎなかった。このような比率は国立劇団の場合、創作劇優先原則に照らして健全なものだと言えるが、レパートリーの内容面で見ると問題点が無くも無い。創作劇の場合、総33編中、脚色あるいは再上演された作品を除外した31編中の半数の15編が新人作品であるが、主に懸賞公募を通じて進出した人達だった。このほかにも準新人といえる作家の作品も少なからず含まれており、国立劇団はおおよそ新人たちの発表場のような印象を与えた。その理由は既成作家の活動が鈍化していたり、またその絶対的数字が少ない点にもあった。柳致眞は1958年以後創作の筆を折ってしまい、呉泳鎭は60年代前半まで活動を見せなかったし、50年代後半にデビューした中堅作家たちは継続して活動していたが数的に劣勢だった。そして同人制劇団の活動が旺盛だった点も、彼らに多くの作品を期待できなかった一因となった。一方で、翻訳劇もレパートリー選定において、国立劇場の設立目的と別段関係のない(すなわち古典大作であろうと、現代の代表的戯曲では無い)作品が続いており成果面が微弱だった。しかし、とにかく新人を重く用いることは、劇作家の新しい世代の出現を促進させる結果となり、60年代国立劇場のひとつの成果であると言うべきであろう。この時期に記憶するにふさわしい公演中、中堅作家としては車凡錫(チャ・ボンソク)の『山火事』(1954)が目につくだけで、反して新人のものとしては千勝世(チョン・スンセ)の『満船』(1964)、呉泰錫(オ・テソク)の『換節期』(1968)、廬慶植の『タルヂプ』(1971)、李載賢(イ・ヂェヒョン)の『捕虜たち』(1972)などの登場が注目に値するものとなった。

だいたいこの時期の国立劇団の活動は、後述する同人制劇団の活動の陰になって相対的に低い評価を受けたが、上に指摘したひとつふたつの貢献は無視できない。その反面、行政的運営からくる安易性と画一主義が目に留まり、予算の不足に劇場責任者の頻繁な交代、そこに由来する専門的責任の所在の不透明等、いくつかの欠点が指摘されることもあった。そして新人作家発掘の功労とは対照的に、演技者養成には粗忽だったということも指摘されなければならない点だ。このような惰性から抜け出す良い契機が1973年に与えられた。この1973年10月に、国立劇場は新しい建物を獎忠洞の公園地帯に建てて引っ越すことになったのである。巨大な予算で建てられたこの建物に移ることで、国立劇場は新しい風貌を持つことになったが、専属人員の拡充、予算の大幅増額、現代的舞台施設の確保等、外部的条件が画期的に改善されており、これからの内的充実を期待するばかりである。新しい国立劇場の竣工とともに、旧劇場は一時芸術劇場という名称で貸館専用として存在していたが、政府の決定によって1975年12月に廃館して一般公売にかけられた。

国立劇場の再出発と時を同じくして設立されたのがドラマセンターである。1962年4月に開館したこの劇場は韓国演劇研究所という法人所有であり、同研究所の理事長柳致眞の粘り強い努力で成された。柳致眞は解放以後、おもに劇協・新協と密接なつながりを結んで劇作と演出に従事してきたが、1956年にロックフェラー財団の招請で欧米演劇界を視察し、新しい劇場と演劇学校を含んだ演劇センターの設立に思いを寄せることとなったのだった。当時彼が熱望していた演劇の目標は、現代世界の新しい演劇形態に大きく影響を受けたものであり、劇場は小規模でありながらも舞台形態は在来のプロセミアム形式を志向する性質のものに置かれた。そして彼は良い演劇の制作に欠かせない、新しい人材の養成も強調したのだった。このような彼の思想を実現させようと、折よくロックフェラー財団が支援してくれた6万5千ドルをもとに南山公園地帯の一部を得てドラマセンターを着工した。客席450席程度のこの劇場は優雅な建物で、舞台と客席を一体感が出るように連結させ、若干狭苦しいながらも公演と養成を同時にできる機能に重点を置いた。

柳致眞がドラマセンターを設立した時の彼の当初の構想は、まずその下に専属劇団を置いて年中無休の連続公演を可能にするということだった。二つ目に演劇アカデミーを開設し、演技・演出・劇作・舞台美術等、各分野にわたって人材を広く養成するということだった。これとともに演劇専門の図書館を置いて、演劇関係図書の収集と演劇文化財の保管・整理を企図した。以上の三つの目標のもと、彼はまず年間10回内外のレパートリーを組んで、ひと公演あたり1か月のセミ・ロングランを計画して、1962年4月『ハムレット』で幕を開けた。当初、彼は既成演劇人を排除しようと、同人制劇団に関与した国内外大学出身の新進演技者を主軸にチームを構成した。しかし演劇の現実とその理想主義的性向が一致せず、一種の妥協策として、既成と新人のダブル・キャスト構成にする等、初めから行き詰まりに直面した。初年にはやっとのことで6回の公演までこぎ着けたが、きわめて深刻な資金難と、一部から独善的だという非難を受けた運営方式の失敗が積み重なり、次の年からは公演活動を中断する事態に至った。

一方、演劇アカデミー側は1962年秋に正式に発足して人材養成に気を使ったが、1964年からソウル演劇学校と改称、倦まずたゆまず持続して、1974年からソウル芸術専門学校(現ソウル芸術専門大学:訳注)として現在に至っている。そして演劇アカデミーの研究課程は長く持続できなかったが、その中の一部が劇作志望生を中心に発展し、1965年に「劇作ワークショップ」(呂石基主宰)と名称をつけて、60年代後半からの新人劇作家輩出に大きな分を占めるに至った。このワークショップを経た作家たちの中に朴祥烈(パク・サンヨル)・呉在昊(オ・ヂェホ)・尹大星(ユン・デソン)・呉泰錫(オ・テソク)・李載賢(イ・ヂェヒョン)・廬慶植(ノ・ギョンシク)等が含まれている。このほかにもドラマセンターは韓国演劇賞選定、男女中高等学校演劇競演大会、新人劇作家発掘のための新春文芸当選作公演等、多くの行事を繰り広げた。

劇団ドラマセンターは1964年9月に、ソウル演劇学校(前身である演劇アカデミー含む)で養成した演技者を中心に結成された。しかし初期の劇団活動は大きな注目を受けることなく、レパートリーの選択や公演成果においても際立ったものは無かった。70年代に入って後継者と目された新鋭柳徳馨(ユ・ドキョン)が実験的演出方法を導入するのと時をあわせて突然活気を帯びてきた。柳徳馨は彼の『演出発表会』(1969/6)で才能を見せて後、引き続いて『誕生パーティー』(ピーター・ハントケ作、1970)、『草墳』(呉泰錫作、1973)等、話題をかもした。創立者柳致眞の物故(74年2月)以後、東朗レパートリー劇団と改称し、引き続いて『胎』(呉泰錫作、安民洙演出、74年)等の問題作を上演した。ドラマセンターはさまざまな自身の試行錯誤と演劇界の現実的悪条件が合わさって、当初の理想とは掛け離れた形態で運営されることもあった。が、過去10余年の悪戦苦闘がしだいに得がたい成果を残すことにいたり、柳致眞の意図していた新しい劇術の探究は彼の死後ある程度実現できたと見ることができ、新しい人材の養成という点でその功績を高く評価できよう。

4.1960年以後(下)

60年代に入って韓国演劇に起こった最も際立った現象は同人制劇団の台頭である。制作劇会の結成に引き続き、すでに50年代末に表現化しはじめた小劇場運動から現れた同人制演劇運動は、60年代に入ってから活発に始まったが、それが演劇界の再編にまで発展するには既成演劇層退潮が大きく作用していたと思える。50年代演劇の主流を形成していた新協が活動中断状態に陥っており、国立劇場を中心に活動してきたその他の演劇人たちの場合にも、これとする積極的な姿勢として現れてこなかったうえ、激甚な時代的社会的変動に対処する余裕を持つことができなかった。そこへ映画をはじめとする大衆芸術媒体が一部演劇人を吸収したことも一因となり、演劇界はいずれにせよ改編を免れない事情におかれていたのだ。したがって同人制演劇運動の台頭が意味するところは、一つ目は急激な演劇界の世代交代を示すものであり、二つ目に演劇行為に対する新しい理念あるいは接近方法の定立を再構築し、三つ目に世界演劇の中の韓国という新しい認識を促す結果を招いた。このような演劇に対する新しい認識は、次のような主張に端的に現れていることがわかる。

「この公演(注:彼ら以前の既成演劇)が技術的には成功したが、私たちをつき動かす演劇の力、イプセンやバーナード・ショーが叫んでやまない人間の内的革命や「人間と社会を諭す」演劇ではないと思う。演劇は言うまでも無くこのようなものだという自分たちだけの固定観念に捕らわれており、公演者たちからは近代精神や現代意義を発見することはできなかった・・・一口に言って、当時の劇界はその後進たちに知識や技術を教えてやることはできたかもしれないが、哲学や理念を教えることはできなかった・・・すでに彼らの大部分は年老いていた。そのうえ、若者たちを育てる場所もふさわしくなかったとした。」(金義卿(キム・ウィギョン)『実験の出発と再出発』実験劇場10年史)

この時期に発足した同人制劇団は、その公演活動の実績においてかなり旺盛だったということができる。1960年10月に実験劇場が発足しており、同人劇場が活動するのは1962年10月(沿革は1959年までさかのぼれるが)、1963年1月に民衆劇場が、同じ年の9月に劇団山河(サナ)、1965年3月に劇団架橋(カギョ)、1966年3月に劇団廣場(クァンヂャン)、すぐその後の4月に自由劇場(チャユグッチャン)、10月に女人劇場(ヨイングッチャン)がそれぞれ創団した。これらの劇団中、同人劇団を除外して1975年現在すべて活動を継続しており、その意味で純粋演劇を標榜する劇団として10年以上15年間ほど活動を継続することは韓国演劇では見ることの無かった現象である。それのみでは無く、1960年以前にあった劇団新協・制作劇会等も一時活動を中断するにはしたが、現在までたゆまなく命脈を維持しており、60年代以後の韓国演劇が大衆とは距離を遠くしているとは言っても、その生命力ははるかに強靭になったことだけは間違いない。

同人制劇団の共通した特色は、非営利的純粋性を標榜したところにあった。非営利的ということは反面で職業化をさえぎる重大な要因となった。それが劇団活動が年を追うごとにつれて、制限的要因として70年以後にしじゅう論難の対象になった。とにかく純粋な同人意識がいくつもの悪条件にもかかわらず、劇団を守ることに助けとなったのは間違いない。しかし反面、職業性が看過されることから演劇以外の職場(特に演技者の場合、映画・テレビ等の大衆媒体)に束縛されることにより、同人制が標榜する純粋性を害して、演劇活動を安易にしてしまう弊害も目についた。職業主義に侵食されたタレント的スター・システムが、50年代以前の新派劇的商業主義と異なる意味で、それに劣らず悪影響を演劇に及ぼした。

レパートリー及び公演回数を中心に、各劇団の活動を要約すれば次のごとくである。まず実験劇場(代表:金東勲/キム・ドンフン)は1975年末まで16年間の公演実績が50回に肉薄しており、これらの同人制劇団の中では代表的であると言える。「実験舞台の構築と理念に満ちた演劇」を標榜したこの劇団は、創立時、イヨネスコの不条理劇『教室』をはじめて我が国に導入することもしたが、レパートリーの内容は西欧古典大作(たとえばシェイクスピアの四大悲劇)から新進劇作家による意欲ある創作劇にいたるまで広範囲な反面、商業主義的配慮も少なからず意識している。1968年に事実上解体した同人劇場は総21回の公演中、15編が翻訳劇であった。民衆劇場もやはり「既成演劇の姑息な姿勢」を拒否する宣言をして斬新な姿で登場し、活動的だった初期の3年あまりのあいだにフランス演劇を主軸にした喜劇に重きを置いて、現代的感覚を誇示するところがあった。劇団山河は「演劇の大衆化」を主張しており、職業劇団としての自立化を模索した。しかしその点では大きな成功を収めることはできなかったし、創団初期に車凡錫・任煕宰・河有祥等の劇作家中心の劇団としての性格をはっきりとさせた。その点はこの劇団を率いてきた車凡錫の創作劇が10編近く上演されたということのみを見ても際立っている。

劇団架橋は李昇珪(イ・スンギュ)を中心に大学演劇科出身の新人たちで構成されており、演劇を正規の劇場舞台以外の講堂・会館・教会、さらには地方の僻地巡回公演まで拡大させたところに特色を見いだすことができる。翻訳劇に注力する反面、中堅作家として旺盛な活動を見せた李根三(イ・グンサム)の創作劇に多く依存してきた。いっぽう、劇団廣場は老壮の演出家李眞淳(イ・ヂンスン)を中心に「創作劇の貧困を打開する」という姿勢を見せ、翻訳劇は主に近代古典(チェホフ)及びシェイクスピア、モリエールなどの堅実なレパートリーを選んだ。自由劇場は李秉福(イ・ビョンボク)を代表に、金正ト(キム・ヂョンオク)が中心になって活動してきており、初めから翻訳劇に重きを置く意図をはっきりとさせ、ギリシア劇をはじめとする西欧演劇を継承・発展させ、韓国新劇創造に貢献するとした。西欧的感覚による洗練性は、だいたいにリアリズムの追求から顔を背けたところがこの劇団の特色となっており、いままで45回を越えるこの劇団の各種公演のなかで翻訳劇が占める比重は圧倒的だ。

女人劇場は姜由禎(カン・ユヂョン)が中心になって、女子演技者たちのみで創団された劇団である。レパートリー上の特色としては、米国劇作家のテネシー・ウィリアムズの一連の作品(5編)を1969年から72年まで上演したことを上げることができる。この他にも70年代に入って劇団サヌリム(代表:林英雄/イム・ヨンウン)・民芸劇場(代表:許圭/ホ・ギュ)等の劇団が創団され、日が浅いとはいえ、弛まない活動を見せている。反面、歴史ではるかに古い新協の場合、1963年3月に再建されて現在に至るまで中堅メンバーを中心に活動しているが、昔日の覇気と主導力はすでに喪失してしまっている。制作劇会もやはり1961年以後しばらくのあいだ中断状態にあったが、金京ト・朴賢淑(パク・ヒョンスク)を中心にして1963年に再起した。しかし従前の活動的メンバーがほかの同人制劇団で主軸となって活動しており、面目のみを維持しているという感を与える。

以上の劇団別活動の概況とは別個に、60年代以後の主要演劇現況をいくつか記述しておくことにする。

一つ目に、創作劇活動において50年代後半から60年代初へ出てきた中堅作家たち(車凡錫・李容燦・河有祥・李根三等)がおおいに活躍しており、60年代後半から出現し始めた新進作家たちが新しい活気を吹き込んだ。その意味で、数的には決して多いとは言えないが、50年代と比較してみるとき創作劇ははるかに活発になっていたと見ることができる。また70年代に入って"文芸中興五か年計画"(74年から始まる)による創作劇支援が政策の重要な一部をなし、さらに拍車を加えた。これに合わせて、この時期の翻訳劇公演は量的にあるいはレパートリーの多様さにおいても、過去のどの時よりも豊かであり、韓国演劇が世界に窓を開けていることを意味していた。レパートリーの内容を見ても西欧古典(ギリシア劇、シェイクスピア、モリエール)から最近の不条理劇(ベケット、イヨネスコ)に至るまで、幅広く導入する良い現象を見せたが、一部では定見が無いとの批判もあった。

二つ目に、演劇活動の必須の要件である舞台問題は、劇団活動を制約する要因の一つとなった。おもに明洞の国立劇場のみに依存してきており、正規の劇場としてはこの他にドラマセンターのみだった。その打開策の一環として、そして新しい形態の公演試図として、韓国最初のカフェテアトルが生まれており(1965年から75年)、あいついで類似した性格の場所がいくつか生まれて小劇場運動の助けとなった。この他にも70年代に入って文芸振興院が演劇人会館を設立し(1974)、小劇場と練習室等を提供して(1974)実験劇場・民芸劇場・エヂョト劇場等が自身の小劇場を準備して、運営上の悪条件にもかかわらず舞台拡大の努力をたゆまず行ってきた。しかし舞台の確保は70年代韓国演劇の至急な課題として依然として残っている状態だ。

三つ目に、観客の問題においても劇団運営、特に演劇の職業化・専業化のための観客確保がうまく成り立っていない。1964年のシェイクスピア生誕400周年記念演劇祭(7個劇団が参加)のときに見せたように、劇界の合同努力で4万以上の観客を動員させた異例の記録はあるが、一公演あたりの万名線(1万名程度という意味か?:岡本注)が上限たるありさまで、たいがいは5千名以下という実情にある。60年以後の韓国演劇が外形上は完成した活動を見せるのに比べ、観客問題は逃れることのできない宿題として残っている。

四つめに、小劇場と大学演劇活動はこの時期にたいへん旺盛だった。一例をあげると、1945〜60年のあいだの大学演劇公演回数が74回であるにくらべて、1961〜69年間の数字はおおよそ294回に至った(金成娥『韓国大学演劇に関する研究』)。とはいえ問題としてはこのような外的旺盛度に比べ、方向感覚と創造性が一般的に欠如していることを指摘できる。このほか大学に演劇科が生まれて人材を輩出しており、演劇専門誌として「演劇(1965)」「演劇評論(1970)」「現代演劇(1971)」「ドラマ(1972)」等が、特に70年代に入って出てきた。しかし大部分が短命に終わった。

終わりに60年代末から70年代初にかけて韓国演劇界に際立って現れた現象として、仮面劇・人形劇・パンソリ等、韓国の伝統民俗劇に対する高調した関心をあげなければならない。このような伝統演技形態に対する興味と関心から出発して、一部の劇作家・演出者にこれらの形態の特徴的要素を積極的に導入・受容して現代化させてみようという試図をうかがうことができた。また、それに対してあれこれと論議された中に「演劇において何が韓国的なのか」「ノリの精神をこんにちの演劇はどのように生かしていくのか」等に対する演劇界の関心が高まったことは注目するに値する。

これと並行して、あるいは対照的に、現代西欧演劇の前衛的・実験的要素を大胆に導入してみようという動きが劇界の一部、特に「若い演劇」を唱える一角で起こった点も看過できず、現代においての演劇行為の意味をいくつかの面から再吟味してみようという動きもあった。ひっくるめて70年代の韓国演劇は未整理の中にありながら、たゆまず胎動しているという点のみは否定できない。解決していない課題があまりにも多いために、その挑戦のなかにむしろ活気を探っていると言っても過言ではない。

© 呂石基(ヨ・ソッキ) / 翻訳 岡本昌己(SPAM対策:*を@に置き換えてください)