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1945〜59年
日・韓現代演劇交流が本格的に始まるのは1979年の日本の劇団「昴」と韓国の劇団「自由劇場」の相互訪問公演からである。しかし、それまでに日・韓双方に対する演劇的関心がまったくなかったわけではない。このページでは演劇交流が本格化する前段階の主要な演劇交流・実践を紹介する。

文化座『春香傳(チュニャンヂョン)』上演(1947/8/16-31)
劇団「文化座」 が第10回公演として“赫宙”張恩重(“ヒョクチュ”チャン・ウンヂュン、1905〜?)脚色の『春香伝』を佐々木隆(1909〜1967)の演出で新宿「帝都座」にて上演した。
Bunkaza 1947
「国立劇場」開館(1950/4/30)
ここで言う「国立劇場」は現在の「ソウル市議会議事堂」。1934年に竣工した「京城府民館」を改修して「国立劇場」としたもの。「京城府民館」は解放後、米軍が接収していたが1949年にソウル市のものとなり、1975年の汝矣島国会議事堂完成まで国会議事堂として利用された。1950年4月29日に国立劇団が創団されるにともない、同じ建物を国立劇場として使用した。1950年4月30日のこけら落としは柳致眞の『元述郎(ウォンスルラン)』。しかし、この直後に「ユギオ」が起こり、国立劇場は一時大邱に疎開した。ソウル還都後は明洞の「市公館」(旧明治座)をソウル市議会と共用したが、1961年に「府民館」を「市民会館」として開会してソウル市議会がそちらへ移り、1962年に「市公館」を「国立劇場」とした。
韓国芸術座『國劇春香傳』新宿松竹座上演(1958/9/25-30)
“獨鵑”崔象徳(“ドキョン”チェ・サンドク、1901〜1970)を団長に林芳尉(イム・バンウル、1904〜1961)・“琴軒”申快童(“クモン”シン・ケドン、1910〜1977)をはじめ朴貴姫(パク・キヒ/本名・呉桂花、1921〜1993)・“春鶯”林終禮(“チュネン”イム・ヂョンネ、1923〜1975)ら40人が来日し『春香伝』を新宿松竹座(9/25〜30)をはじめ、名古屋・大阪・神戸・京都・福岡などで上演した。評論家のほんち・えいき(1925〜)は「テアトロ」(1985年12月号)のアンケート企画「戦後の来日公演ベストテン」にこの公演を選んだ。新聞記事では1958年9月12日付の朝日新聞「韓国と中国から芸術団 純粋の古典劇を公演」がある。
「韓国と中国から芸術団 純粋の古典劇を公演」

1960年代
劇団七曜会『朴達の裁判』俳優座劇場(1960/3/11-18)
創立10周年を迎えた劇団七曜会は記念公演として創作劇を連続上演することにし、その最初の作品として在日作家金達寿(キム・ダルス)原作・八木柊一郎脚色による『朴達の裁判』を3月11日から俳優座劇場で上演した。朝日新聞に「どぶろく屋も見学/朴達の裁判、劇化上演/七曜会が十周年記念に」(1960年2月26日付)がある。
「国立劇場」開館(1962/3/21)
ここで言う「国立劇場」は現在の「明洞芸術劇場」。植民地時代の多目的ホールだった「明治座」を解放後に「市公館」として使用していたが、これを改造して「国立劇場」としたもの。開館記念公演はイ・ヨンチャン作・朴珍演出の『若さの賛歌』。
「ドラマセンター」開館(1962/4/12)
ソウル・南山のふもとに「ドラマセンター」が開館した。「ドラマセンター」は、

 1960年、劇作家で演出家の“東朗”柳致眞(“トンナン”ユ・チヂン、1905〜1974)が米国ロックフェラー財団からの財政支援によって着工し、1962年に竣工した約500席の半円形客席を持つ演劇専用の中規模劇場。設計は金重業。財団法人韓国演劇研究所として出発し、設立者柳致眞を所長として事務局長申泰皎(シン・テミン)、劇場場に李海浪(イ・ヘラン)、アカデミー院長に呂石基(ヨ・ソッキ) などの陣容を取り揃えた。演劇中興と後進養成のための学習の場を兼ねて設計され、当時としては画期的な開放舞台(open stage)として構築された点が特徴であった。円形舞台はギリシア野外劇場の舞台に模したものであり、主舞台は近代劇の舞台形式である。その他に講義室を含めて図書館や作家室・衣裳室・楽屋など、演劇を学び上演するために必要な施設を取り揃えた。
 1962年4月、こけら落としとして柳致眞演出の『ハムレット』を上演し、韓国演劇中興の騎手になると期待された。しかし観客不足と財政的基盤の脆弱性から財政難に陥り、翻訳劇中心の公演で韓国演劇の中興に寄与できなかったという批判の中で、けっきょく興行を主目的とする貸し劇場に変化した。
 ドラマセンターは児童劇団「童演」や専属劇団である「劇団ドラマセンター」を創立して多くの演劇人を養成し意慾的な演劇活動を開いた。「劇団ドラマセンター」は1974年に柳致眞が死んだ後に名称を、彼の号を取って「東朗レパートリー劇団」とし、1970年代反写実主義演劇運動を展開して、韓国劇界に大きな変化を起こした劇団として注目された。1962年に職業俳優と演劇人養成のために設立した付設「韓国演劇アカデミー」は「ソウル芸術専門学校」(1974年)を経て、1998年には「ソウル芸術大学」に発展した。(出処はネイバー百科事典、ただし一部修正・加筆)

1962年のドラマセンター関連記事は「東亜日報」と「京郷新聞」と「毎日経済新聞」だけで377件に上る。2012年現在は「ソウル文化財団」が運営にあたっており、名称も「南山藝術センター」となっている。
ドラマセンター 設立当時のドラマセンター
「朝鮮日報」記事 1963年6月22日 「日本へ行く児童劇団セドゥル」
 わが国の児童劇団として一番最初に生まれ、この間3回の公演を行った児童劇団「セドゥル(鳥たち)」(団長・朱萍)が日本の東京にある「亜細亜友之会」(東南アジア各国の文化交流機関)の招請を受け、夏休みを利用して来る8月1日からひと月間九州から北海道まで、日本各地を回って公演を持つことになった。
 東京韓国学院、在日居留民団、在郷軍人会東京支部などの後援ですべての費用を「亜細亜友之会」で引き受け、公演旅行を行うことになった児童劇団セドゥルの公演作品は第1回公演作品である『ウサギ伝』(5幕、朱萍氏演出)で、今回招請を受けた人員は25名で、8歳から11歳までの男女子供団員20名と職員3名、姉・母2名。」


*統營(トンヨン)出身の児童文学者・朱萍(チュ・ピョン、1929〜)を代表として1962年に創団されたセドゥルは、1963年から1965年にかけて3回にわたる日本公演を行った。最初の日本公演は(韓国の新聞記事によると)「日本亜細亜友之会」の招請で、居留民団と東京韓国学園などが後援となって実施された。上演作品は『森の花の精』(朱萍・作)や『うさぎ伝』(朱萍・作、李城・演出)などで、公演は北九州地方から始まり、関西・関東を経て東北地方まで巡回した。日本公演を終えた朱萍は東亜日報(1963/10/19)紙上で日本の児童演劇の現況を紹介するとともに、セドゥルの舞台が日本で好評を得たこと、特に成人演技者ではなく児童が舞台に立って演じるというセドゥルのスタイルが珍しがられたと語った。
 翌1964年は「日本児童演劇協会」の招請で日本公演を行った。当時の日本児童演劇協会会長であった栗原一登(1911〜1994)が主導して招聘し、同協会の北島春信(1927〜)の引率によって、戦前から劇教育で有名な成城学園で児童たちに見せたという(日本児童演劇協会、2011/4/6)。上演作品は前回と同じく『森の花の精』や『うさぎ伝』などで、これらの作品とともに韓国の歌や舞踊が演じられた。しかし1965年の第3回めの日本公演では、前回の公演で「物議をかもした日本の歌はうたわない」(京郷新聞、1965/11/3)ことにしたという。このことから、当時の韓国社会ではたとえ児童劇団であっても日本の歌をうたうことはタブーであったことが判る。セドゥルの日本公演は1965年以後行われなかったようで、60年代の日・韓児童演劇交流はこれ以上には活性化しなかった。しかしセドゥルとの交流は日・韓間の人の往来が容易ではなかった時代に、日本演劇人が韓国演劇に接する機会をもたらした。
「東亜日報」記事 1963年8月19日 「児童劇団セドゥル、渡日」
 児童劇団「セドゥル」が日本アジア友の会の招請で20日、船便で渡日し、一ヶ月間日本各地を巡回公演することになった。児童劇(朱萍:チュ・ピョン作)『森の中の花精』(全5幕)上演と歌謡・舞踊などのプログラムで巡回する「セドゥル」劇団は朱正雄(チュ・ヂョンウォン)氏を団長に、舞台関係3名、保護者(姉・母)2名、出演児童20名の25名で構成されている。崔光葉・張世準氏の企画・指揮で進行する今回の渡日公演の地区別スケジュールは次のごとくである。▲北九州地区…8月21日 ▲中国地区…8月22日〜23日 ▲関西地区…8月24日〜27日 ▲中部地区…8月29日〜30日 ▲関東地方…8月31日〜9月5日 東北地区…9月7日〜20日。
「東亜日報」記事 1964年7月25日 「日本へ行く子供劇団 セドゥル、来月出発予定」
 幼い演技者で組まれた児童劇団「セドゥル」が日本児童劇協会の招請を受け、8月中旬の日本に発つ。
 昨年8月にも日本で公演した「セドゥル」は朱萍作、イ・ソン演出の『ウサギ伝』(3幕)をもって日本に向かうが、出発に先立ち24日から国立劇場で一日に3回ずつ(2時、5時、8時)記念公演を行っている。
 水の国の竜王の病を治すためにウサギの肝をさがして現れた亀はウサギを連れて水の国へ行くが、多くのウサギが危険な瀬戸際を乗り越えて生き残るという物語だ。
 『ウサギ伝』にはこの間映画によく出るアン・ソンギ、ユ・マンソン、朴チョンファ、朴クミ、チョン・ヨンソンなど、幼いスターを含んで40名の子供たちは東京や大阪・名古屋などあちこちで韓国語で『ウサギ伝』を公演することになる。
 アン・ソンギと朴チョンファが亀の役をやり、朴クミとチョン・ミヨンが親ウサギ、ユ・マンソンとチョ・ヨングォンがずるがしこいキツネ役で出る。
グランドバレー『自鳴鼓』東京文化会館(1964/11/1、11/3)
1964年の東京オリンピックの直後に日本で韓国作品を共同制作により上演した(この作品が最初の日・韓共同制作?)。韓国の元老演劇人柳致眞(ユ・チヂン)の『自鳴鼓』を青山圭男(1903〜1976)が構成・演出し、作曲は禹鍾甲(夏田鍾甲、1916〜?)が担当した。主演には当時、日本で韓国舞踊を教えていた金順星(キム・スンソン)が務め、国際アーチストセンターの会員など多数の舞踊家が出演した。京郷新聞「舞踊劇“自鳴鼓”/日本で公演準備」(1964/5/2)の記事に「古典舞踊家金順星女史は来る秋の東京オリンピックを契機に、日本に集まる世界各国人士に韓国舞踊を紹介しようと準備中だ。/この計画は既に渡日した金女史と著名な日本の舞踊家たちの間で具体化しているが、レパートリーは柳致眞作“自鳴鼓”を舞踊劇にしたもので、振り付け・主演を金女史が担当し、その他のスタッフとキャストは多くの日本人が参加している。/公演日程は来る11月初旬に東京の上野にある文化会館と大阪国際文化会館などで上演する予定だ」とある。
「東亜日報」記事 1965年1月16日 「児童劇団セドゥル、20日に渡日」
 児童劇団「セドゥル」が在日居留民団招請で20日、船便で渡日、23日から東京をはじめ日本全域15カ都市で公演する。出し物は『ウサギ伝』(全3幕)と舞踊10種、音楽7種などで、団長の朱萍氏が20余名の団員を引率して出発する(職員3名、姉・母8名)。「セドゥル」は昨年8月にも日本の主要都市を巡回公演した。
「韓国の演劇を見て <上・下>」朝日新聞 1965年6月23日
劇作家の栗原一登(劇作家・日本児童演劇協会会長)が韓国演劇協会の招請で5月末から6月中旬まで韓国に滞在し、児童劇や大学演劇、ドラマセンターなどを訪問した。その時に見聞したことを朝日新聞紙面で記事にしたもの。6月24日には「韓国の演劇を見て <下>」を掲載。
韓国の演劇をみて 上  韓国の演劇をみて 下
「京郷新聞」記事 1965年11月3日 「セドゥル児童劇団、第3次日本公演」
 セドゥル児童劇団は12日、第3次日本公演のために出発した。朱萍氏の引率で6〜7歳の子供団員17名は日本児童演劇協会の招請で『沈清傳(シムチョンヂョン)』と民謡の合唱および舞踊などのプログラムで生き生きとした韓国の子供たちの姿を東京をはじめとする9個地域で見せることになる。物議をかもした日本語の歌は唄わないことにした。
劇団山河(サナ)『孤独な英雄』国立劇場(1969/4/11-13)
劇団「山河」が福田恒存(1912〜1994)の戯曲『解ってたまるか!』を車凡錫(チャ・ボンソク、1924〜2006)翻訳・表在淳(ピョ・ヂェスン)演出で『孤独な英雄』として国立劇場で上演した(〜4/13日)。「東亜日報」の記事によると“日本作家の作品が韓国舞台にのぼるのは815(パリロ)以来、今回が初めて”とのこと。劇団「山河」に関してはネイバー百科事典「山河」を参照のこと。
東亜日報「日本知識人風刺劇”孤独な英雄”公演、劇団山河」(1969/4/11)

1970年代の韓国演劇は、70年代初期の約20余劇団による年40回公演が、70年代末には約50余劇団が年200回公演を行うまでに拡大していた(京郷新聞、1979/12/26)。呂石基(ヨ・ソッキ)はこの時期の韓国演劇の活況の要因を、まず新装「国立劇場」で広範囲の公演活動を支持し、次に同人制劇団が韓国演劇を主導する座を確固としたこと。そして1970年代中盤の「文化芸術振興法」や「韓国文化芸術振興院」の設立による文化芸術支援政策を展開したこと等を挙げ、前年に始まった「大韓民国演劇祭」も刺戟になったと説明した(「韓国の公演芸術」ITI韓国本部、1999、pp.56-57)。

1971年
「京郷新聞」記事 1971年5月18日 「アンダーグラウンド演劇ブーム起こる」
「韓国演劇協会会長」の車凡錫が日本を訪問し、当時の日本演劇界のようすを新聞紙面で紹介した。
「アンダーグラウンド演劇ブーム起こる」

1972年
劇団「状況劇場」『二都物語』韓国公演(1972/3/23)
朴正煕(パク・チョンヒ、1917〜1979)政権下の韓国で、唐十郎(1940〜)と劇団「状況劇場」海外遠征隊が『二都物語』をソウルの西江(ソガン)大学キャンパスで上演した。この時、韓国側協力者である劇団「常設舞台」が『金冠のイエス』(李東眞・作、金芝河・脚色)を上演した。状況劇場の公演は一般に「戒厳令下で行われた」と言われているが、この時は戒厳令も衛戍令(ウィスリョン)も発令されていなかった。
日、前衛劇団「状況」初来韓公演 “日、前衛劇団「状況」初来韓公演”(東亜日報、1972年3月25日付)

*日本側の新聞記事には『韓国で芝居をうつ 西江大学、夜の校庭で 修道尼まじる五百の客 状況劇場、唐十郎のリポート』(読売新聞、1972年2月28日付)があり、また1972年4月28日付朝日新聞『唐十郎の新作上演 東京とソウルを結ぶ「二都物語」』にもソウル公演に関する言及がある。
文化座『春香傳(チュニャンヂョン)』上演(1972/4/14〜22)
劇団「文化座」が第50回公演として『春香伝』を上演。「許南麒」本をもとに寺島アキ子(寺嶋秋子、1926〜2010)が脚色。演出は村山知義(1901〜1977)。金両基(1933〜)による劇評『厚味を増した劇化・演出--文化座“春香伝”』が「テアトロ」1972年6月号にある。
劇団民藝『銅の李舜臣』砂防会館(1972/9/6-7)
劇団民藝の米倉斎加年(1934〜)が金芝河(1941〜)の作品『銅の李舜臣』などを砂防会館(東京・平河町)で上演。この頃から約10年の間、民藝や京浜協同劇団などで金芝河作品が上演された。下表は新聞や演劇雑誌等で紹介された金芝河関連作品(このリストから漏れている公演もあります)。
金芝河作品公演リスト

1973年
「国立劇場」開館(1973/10/17)
中区獎忠洞「国立劇場」が開館。明洞の「国立劇場」は貸館劇場となる。
獎忠洞「国立劇場」

1976年
「韓国演劇」記事 1976年1月号 劇界動静「日本の演劇誌で韓国演劇が紹介される」
 日本の演劇誌「新劇」10月号の小特集『知られざる海外演劇』欄へ、 「新東亜」(1975年1月号)に掲載された張潤煥の『韓国の前衛芸術』から演劇に関する部分のみ抜粋、 日本語訳(康米邦訳)されて転載された。(p.156)
KT197601
SKD松竹歌劇団・国際劇場『沈清伝・美しき水蓮の物語』(1976/2/2〜26)
国際劇場プロデュースによる日韓合同公演。SKD松竹歌劇団・国際劇場ミュージカル第1回グランドステージとして、。星野和彦 作・演出により『沈清伝・美しき水蓮の物語』を上演した。韓国の新聞記事によれば、当初は韓国人演技者が主役を演じることにしていたが言葉の問題があり、けっきょく韓国側からは日本語に慣れた元老演技人たちを出演させることにしたという。主役の沈清(シム・チョン)は当時松竹歌劇団の千景みつるが演じた。韓国側関連記事は、東亜日報「日本で好評得るミュージカル“沈清伝”」(1976/2/1)、京郷新聞「ミュージカル“沈清伝”日本でヒット/韓・日混成俳優たち熱演」(1976/2/7)などがある。
劇団「架橋(カギョ)」『平和の王子』東京・恵泉女学園(1976/5/25)
韓国の劇団架橋(代表・李昇珪=イ・スンギュ)が『嫁ぐ日』と『平和の王子』を持って、台湾・マカオ・日本などを巡演した。日本では恵泉女学園や国際基督教大学などで『平和の王子』(毛眞珠・作)を上演した。恵泉女学園の資料によると、5月25日にキリストの生涯を描いた影絵芝居『平和の王子』を上演し、「見るものと演じるものが一体になった感動的な舞台であった」という。

*これまで韓国現代劇の日本公演は行われなかったので、李昇珪は日本公演の印象を「韓国の文化、特に現代文化についてあまりにも知らないでおり、したがってわれわれの演劇に対しても意外であるという表情だった」(韓国演劇、1976年6月号)と記した。しかし架橋の日本公演はキリスト教関係の団体に限られたので、韓国演劇を広範に日本へ紹介するにはいたらなかった。

1977年
「韓国演劇」記事 1977年5月号 劇界動静「菊島隆三氏、訪韓」
 日本演劇協会常任理事の菊島隆三氏が去る4月17日〜22日の一週間、韓国演劇界を視察した。 氏は韓国演劇協会の李眞淳理事長を表敬訪問し、歓談した。(p.54)
KT197705
訳注:菊島隆三(1914〜1989)は当時「日本演劇協会」の理事で、同時に「シナリオ作家協会」に所属していた。李眞淳(イヂンスン、1916〜1984)は1975年から韓国演劇協会理事を務め、この時期は再選されて理事職にあった。

「東亜日報」1977年4月22日「不況の沼でもがく日本映画界/日本の元老監督“稲垣”氏来韓」
この記事は稲垣浩(1905〜1980)を筆頭に菊島隆三(1914〜1989)、斉藤茂夫など日本の映画・テレビ関係者10名が訪韓したというもの。
稲垣浩訪韓記事

*この時に稲垣浩・菊島隆三・杉義一・内海一晃・東京宝映社の香山新二郎社長と直居欽哉、そしてオリエンタルアートプロダクションの星野忠光(李忠)が訪韓した。おそらくこの時に直居欽哉は車凡錫から「木浦共生園」のことを紹介され、1979年の『鳳仙花の咲く丘』(直居欽哉作・田村丸演出)上演に結び付いたと考えられる。直居欽哉は「シナリオ」1977年8月号に「韓国映画界見聞記」という手記を残している。この記事から、韓国訪問時に菊島隆三と直居欽哉が李眞淳や車凡錫に会ったことが確認できる。そしてこの時の出会いが後に劇団フジによる『鳳仙花の咲く丘』(1979春)制作・上演に結び付く。

1978年
「韓国演劇」記事 1978年1月号 劇界動静「李眞淳(イ・ヂンスン)理事長が日本を訪問」
本協会の理事長(李眞淳)は日本演劇協会の招請によって、日本の劇界を視察するために1月22日10時、KAL便で出国した。 滞留期間は約一週間で、1月30日に帰国予定。(p.206)
「韓国演劇」記事 1978年6月号 劇界動静「李眞淳(イ・ヂンスン)理事長が日本視察」
李眞淳理事長は来る15日、日本の劇界視察のためKAL機で現地へ向かう予定。 滞在期間は約10日間となるといわれるが、去る1月にも日本の劇界視察のため訪日した。(p132)
「韓国演劇」記事 1978年6月号 劇界動静「車凡錫(チャ・ボンソク)理事、日本視察」
車凡錫演劇協会理事は本協会理事長よりも先に、来る11日に出国する予定。 滞在期間は約10日間で、本協会理事長と任地で合流する予定。(p132)
「韓国演劇」記事 1978年10月号 劇界動静「現代演劇協会の福田恒存氏、訪韓」
「日本の著名な演劇学者であり英文学者である劇作家福田恒存氏が政府の招請で去る10月8日に入国、国内演劇界をあまねく回って10月16日に出国した。
福田氏は11日午前11時、日本の現代演劇協会理事長として韓国演劇協会李眞淳理事長を表敬訪問したが、この席で両氏は韓日間の演劇交流問題に対して約一時間半ほど協議した。両氏は歓談のあと韓日演劇交流に対して、韓国政府の高位層の支援約束を得るために政府高位層を表敬訪問した。その結果反応は良かったとされており、これからの作業の進行が注目される。
いっぽう福田氏は彼が推進している日本の“三百人劇場”建立計画の資料や演劇の本などを李眞淳理事長に贈り、李理事長は韓国の陶磁器と韓国戯曲文学大系二巻を贈った。
あるいはまた、この日の夜7時半には福田氏のために晩餐会をコリアハウスにて李理事長主催で行ったが、この席には金正ト、林英雄、白星姫、金義卿、許圭、李昇珪、金載亨の各氏と福田氏の同伴者である日本の演出家荒川哲生氏が参席し、話に花を咲かせた。
福田氏は劇団山河の『鐘』を観覧し、金正ト氏の招きで八堂(パルダン)にある金氏の別荘で午餐を楽しんだりもした。」(p.51)
KT7810p51 福田恒存氏訪韓
注:記事には“三百人劇場建立計画”とあるが、現代演劇協会のウェブサイトによると「三百人劇場」は1974年(昭和四十九年)に開館した。

1979年
『鳳仙花の咲く丘』劇団フジ(1979/3/21〜4/1:砂防会館)
韓国の演劇俳優白星姫(ペク・ソンヒ)、鄭旭(チョン・ウク)の二人の韓国人俳優が日本の劇団フジの創立20周年記念舞台『鳳仙花の咲く丘』(直居欽哉/作、田村丸/演出)に出演。駐日韓国大使館の李元洪公使、李奉來(イ・ボンネ)芸綜会長、劇作家の車凡錫(チャ・ボンソク)らがこの公演を観覧し、李眞淳(イ・ヂンスン)韓国演劇協会理事長が舞台挨拶を行った。(『韓国演劇』1979/4 p28-29)
KT7904p28 白星姫氏、日本の舞台に立つ

*木浦で孤児院を運営した尹至浩・尹鶴子(日本名・田内千鶴子、1912〜1968)夫婦の話はこの『鳳仙花の咲く丘』に限らず、何度も映画やドラマ作品として企画・制作された。まず最初に韓国で映画化が試みられた。『玄海灘よ語れ』(1973)は映画監督の姜大宣(カン・デソン)が企画し、車凡錫がシナリオを書いた。これとほぼ同じ時期にNHKの川端政道プロデューサーがドラマ化のために韓国のシナリオ作家である韓雲史(ハン・ウンサ)に脚本を依頼し、川端と韓雲史は取材でたびたび共生園を訪問した(毎日経済、1973/12/19日付)。その後、車凡錫の総指揮で韓国のキム・スヨン監督が映画『愛の黙示録』(1995)を制作したが、これは最初の韓・日合作映画となった。NHKはドキュメンタリー『20世紀 家族の歳月“わが子は3700人〜田内家3代・韓国の孤児と歩む〜”』(1999年8月10日放送)を制作した。また著作物としては『愛の黙示録』(尹基、汐文社、1995)と、尹鶴子の孫である田内緑を主人公にした『海をわたる風』(上野紀子、講談社、2001)などがある。尹鶴子の故郷である高知県では「高知田内千鶴子愛の会」が高知新聞社を通じて『木浦の愛』(高知新聞企業、2007)という小冊子を発行し、尹鶴子(田内千鶴子)の業績を顕彰した。
「韓国演劇」記事 1979年5月号 巻頭言「国際間の演劇文化交流」李眞淳
「韓国演劇」1979年5月号の巻頭で李眞淳演劇協会会長が日本との演劇交流に言及した。
「国際間の演劇文化交流」李眞淳 『国際間の演劇文化交流』李眞淳
劇団昴韓国公演(1979/10/26〜30:世宗文化会館小劇場)
日本の劇団「昴」がテレンス・ラティガンの『海は深く青く』をソウルの世宗文化会館小講堂で上演。ところが演劇祭の始まる10月26日に当時の朴正煕大統領が側近の金載圭中央情報部長に射殺されるという事件が起こり戒厳令が発令され、すべての文化行事が中止になった。しかし昴の公演は金正トの努力によって上演回数を3回に短縮して行われた。なお、その他の文化行事は国葬後に再開された。
KT7910p51 韓日演劇交流公演 左は「韓国演劇」の記事
主催:社団法人韓国演劇協会
主管:劇団自由劇場
後援:韓国文化芸術振興院、韓日親善協会、駐韓国日本大使館

東亜日報の該当記事 「東亜日報」記事『大統領逝去余波…各団体ごと計画変更』

*金正ト(1932〜)は1978年夏、ベネズエラのカラカスで開催された世界演劇祭からの帰途、東京に立ち寄って、福田恆存と面会して演劇交流を行うことで同意を得た。同年10月に福田恆存は韓国を訪問し、李眞淳「韓国演劇協会」会長と面会した。福田と李眞淳は演劇交流に関して歓談し、韓国高位層の協力を得るために政府関係者を表敬訪問した(韓国演劇、1978年10月号)。このようにして韓・日の本格的な現代演劇交流が始まった。
 金正トが福田恒存を交流相手として選択した理由は、福田が演劇人でありながら同時に右派の論客として韓国で名を知られていたからだろう。福田は韓国芸術院(李鍾和院長)が日本と中国(台湾)から識者を招請し、芸術交流に関する「アジア芸術シンポジウム」(1973)を開催した際に村松剛(当時、京都産業大教授)とともに参加した。また福田は1975年10月に、やはり芸術院主催の光復30年記念行事「アジア芸術人シンポジウム」に演劇部門で参加し、主題発表「現代芸術においての社会性と内面性」を行った。シンポジウムは21日から23日まで、貿易開館(會賢洞)で開催され、演劇分科(司会、徐恒錫)で呂石基と福田恒存が主題発表を行い、質疑には柳敏榮・李眞淳・李海浪・車凡錫があたった(「文芸振興」から)。なおこのシンポジウムの直前の1975年9月10日に、国際交流基金の初めての韓国向け事業「日本民俗芸能団韓国公演」が実施された。


*昴の韓国公演に対する韓国社会・劇界の反応は多様だった。京郷新聞は既に5月に「韓国劇団の渡日公演と日本劇団の来韓公演はその比重は決して同じにはなり得ない」(京郷、1979/5/21)という劇界関係者の意見を紹介した。日本語による上演は「日帝の教育を受けた壮年層が非正常な反応を見せる憂慮もあり、韓国文化に浸透した日本の影響力を見ても、このような日本文化の直接的な流入は特別の'文化的関税'が必要ではないか」(前掲の記事)という主張だった。このような意見は公演後にも反復して提示された。東亜日報は公演直後に「観客、大部分40〜50代/日本語、台詞、食い違う評価」(10/31)という記事を掲載した。この記事は観客層がふだんとは異なり壮年層が多かったことを見出しで表現し、日本演劇を懐かしがる層が韓国に存在することを暗示した。公演倫理審査委員の李●●(紙面判読不可能)は「会場で日本語で冗談をやり取りしている50代の観客を見て、まだ時期尚早だという考えを堅くした」(前掲の記事)と語った。
 漢陽大学教授の柳敏榮(ユ・ミニョン)は日本との直接的な文化交流に反対する立場から、韓国演劇は日本が歪曲した形態の西欧演劇を受け入れたものであり、新派劇や商業演劇の被害がいまだに残っているのであと20年くらいは開放しないほうが良いと語った(前掲の記事)。このような意見に対して、延世大学新聞放送学科の李相回教授は「文化閉鎖主義は好ましくない」という意見を見せた。歳若い観客は「まず日本演劇を見ること自体が興味深く、俳優の動作や舞台装置が緻密に作られていて立派だった」と好意的だった。韓国日報に掲載された「日・韓演劇交流、好ましいか?」(11/2)という長文の解説記事でも同様の賛・反両主張が反復された。この記事では演劇評論家の鄭鎭守(チョン・ヂンス)が「無条件開放ではなく、芸術性の優れた作品は相互発展のために互いに交流してみるのがよい」という意見を載せ、また文化界の意見として「日本文化をいつ、どの線から受容するのか公開的に評価するのが良い」という意見も掲載した。なお、金正トは1992年に「韓国演劇の裏道/政変時ごとに検閲を気遣う」(東亜日報)でこの当時を回想している。
劇団自由劇場日本公演(1979/11/20〜25:三百人劇場)
韓国演劇交流公演によって韓国の劇団「自由劇場」が朴牛春(パク・ウチュン)作『何になるというのか』(金正ト演出)と、やはり金正ト(キム・ヂョンオク)の演出でジョルジュ・フェドー作『袋詰めの猫 chat en poche』(日本側資料では『買い急ぎご用心』)を三百人劇場で上演した。なおこの後、劇団「自由劇場」は名古屋(CBCホール)と大阪(毎日ホール)でも作品上演を行った。

*「自由劇場」の日本公演作品が2作品になった理由は、福田恒存が金正トが送ってきた「何になるというのか」のビデオを見て不安になり、“ふつう”の作品を準備して欲しいと要求したからである(金正ト、2011/2)。しかし、自由劇場の「何になるというのか」は好評を得て、東京以外の公演地ではこの作品だけを上演した。劇評記事としては、讀賣新聞「初の韓国新劇に感銘/11月の新劇」があり、金正トへのインタビュー記事は産経新聞「意義ある文化交流/韓国演劇が初来日」(199/11/28)讀賣新聞「人間登場/芸術学び日本理解」(1979/11/29)がある。
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