Theatre Reviews
韓・日間の最大公約数さがし
『韓・日間の最大公約数さがし』/韓国演劇編集部 「韓国演劇」2001年7月号

海峡をひとつ隔てたすぐ近くの、そしてその距離と同じほどに歴史的桎梏は深く、そのせいでむしろ遠く感じられる日本。その日本とわが国がことしワールドカップのパートナーとして出会った。FIFAのこの呆れるような決定に呉越同舟を憂慮する者がおり、あるいはこの機会に対国家的和解の場を作ろうと期待する立場もあった。ならばわれわれ演劇界は?このようなさまざまな思いをすべて飛び越えているようである。過ぎ去った何十年も前から不断の努力でいつのまにか力いっぱい駆けてきた演劇交流の成果が、今さらに広く活性化した交流の場に変わろうとしているためである。「韓・日・演・劇・交・流」はどこまで来ているのだろうか。

日本との演劇交流は、じっさいにその源流をつきとめるのは困難なほど深い歴史を持っている。しかしならが韓・日間の最初の公式の交流と言われているものは、1979年の劇団昴(当時の代表は福田恒存)と韓国の劇団自由(チャユ:当時の代表は金正ト)間の交流である。(1979年)10月、世宗文化会館で劇団昴が『深く青き海』を、劇団自由は東京など3個都市で『巾着の中の猫』などを公演した。当時、朴正煕大統領の暗殺による全国戒厳令の影響で昴のソウル公演が一日のみで中断されたが、主催者側の努力で無事に残りの期間公演を行うことができた。もちろんこれ以前にも金喜老事件を扱った『おまえたちは何を知っているのか』(福田恒存作)を、作家の承認を得てわが国で『孤独な英雄』という題で車凡錫(チャ・ボンソク)が翻訳・演出し、1970年代初に公演したことがある。また日本のテント演劇として有名な唐十郎の劇団状況劇場が、1972年戒厳令を避け西江(ソガン)大学で『二都物語』を公演したこともあった。この後、呉泰錫(オ・テソク)や李潤澤(イ・ユンテク)らが、日本のフェスティバルや劇団間の直接交流を通じて本格的に進出することとなった。また林英雄(イム・ヨンウン)、金亜羅(キム・アラ)などによるわが国伝統の成功的な現代化によって、日本でもわが国の演劇が少しずつ知られるようになり、韓国と日本は”互いに違う”ことを認識するようになった。1980年代以後、韓・日間の交流はフェスティバルを通じて参与する方法、劇団どうしの直接交流、その他にまれなことではあるが国家的な招請など、多角度の方法模索を通じてたゆまず続いている。

この頃の韓・日間の交流で目に付く点といえば、初期に個人や劇団の私的な顔見知りによるゲリラ的公演を行っていたものが、合作形態のプロジェクト式交流の動きに流れているということである。また、韓・日両国が特定のコンセプトを持って相互に共感できる内容と形式で互いに近づいており、あわせて公演のみならずワークショップやセミナー、シンポジウムに至る多様な企画で多角的な交流を模索している。「日本との交流において、私がある程度自負心を感じるものは演技ワークショップに関する部分だ。単純な公演のみならず宮城聡や劇団新宿梁山泊の俳優たちとともに、韓国伝統文化を基盤とした演技をある程度伝達したという感じるからだ」。ベセト身体演技ワークショップで『明星皇后』の日本公演中、”李潤澤の演技メソッド”を4日間行ったときの感じを李潤澤はこのように伝える。彼は利賀フェスティバルのとき、演出家平田オリザとの対談をビデオと本で出している。

事実、1990年代以降にはこのような公演以外の作業がきわめて活発に推進されたと見ることができる。このような動きは全般的に肯定的な評価を得ている。多分に公演の芸術性のみで、その公演を”直接見た後の招請”の場合にのみならず、劇団と劇団がプロジェクト式に接近し、各自の必要によって出会うこともある。劇団チョンウは1998年開場した山口県の秋吉台国際芸術村の芸術プログラムの一環として、木村典子をプロデューサーに1999年から3ヵ年計画で準備したプロジェクトの最後を飾って先日帰国した。「芥川龍之介の世界」という副題での『羅生門』公演は、”日本人の良く知っているものを”という主催側の要求に応じてチョンウだけの独特な公演形式で成功裏に終えた。個人的に交流する例もあるが、演出家朴根亨は昨年9月に日本の若い劇団シアター・アンネフォールと国際交流基金の招請を受けて『華蛇が私の足にまとわりついて』の演出で2ヶ月間日本に滞在した。

韓日演劇交流委員会

「韓日演劇交流委員会」は「日韓演劇交流センター」という日本の演劇交流センターと直接連結している国内唯一の公式チャンネルである。1992年に日本演出家協会が韓国の若い演出家たちを招請し、日本で日韓演出家会議を主催したときに、その必要性が台頭して作られた。日韓演出家会議の時にわが国から参加した演出家たちは呉泰錫・鄭鎭守(チョン・ヂンス)・李潤澤・孫ヂンチェク・林英雄らで、ワークショップには俳優ハン・ミョングやチョン・ヂンガク、金星女(キム・ソンニョ)が参加した。この後1995年に韓国演劇協会の演出家や演劇人の次元でこの集まりを拡大して交流しようという意見が出て「韓日演劇人会」というものを10月に組織、1998年にわれわれが日本に行ったのを皮切りに、まいとし互いに行き来しながら活動を行った。そして2000年にわが国では韓日演劇交流協会が、日本では日韓演劇交流センターが発足しており、昨年の歴史教科諸問題や靖国神社参拝問題でいっとき小康状態だったこともあったが、絶え間なく交流が行われてきた。韓・日間交流において事実上の先駆的役割を担当してきたという評価を得る林英雄は、「交流センターとは事実上交流が円滑でないときに必要なものです。いまは顔見知りや劇団どうしで多くの関係を結んでいます。劇団と劇団が私的に交流できるならばセンターがあえてそれらに介入する必要は無いでしょう」と言う。

惜しむらくは韓日演劇交流委員会は充分ではない予算などの余力不足で、いまだに国内の劇団をまとめる組織的な形態をもてない状態である。しかしながら多くの演劇人たちは、センターの役割をある程度期待する視線だ。特に財政的一貫性を持って、劇団に即時的で直接的な助けとなることを望んでいる。情報提供や支援面でスマートな機構としてのセンターというわけだ。いっぽう、文芸振興院院長である金正トの「わが国の韓日演劇交流委員会のばあい、日本のどの団体が日韓演劇交流センターを引き受けるのかによって違ってくる面が無くは無い。事実、そのような組織はすべてに当然必要な窓口であるのでより開かれていなければならず、その時々によって変わらない、一貫した政策で劇団の混乱を招かないようにしなければならない」という言葉は示唆するところが多い。

交流において

もちろん劇団どうしの自由意志に任せる問題ではあるが、日本公演におけるギャランティはわずかで、飛行機代や滞留費すらもままならないうちに公演に旅立つ劇団がたまにある。それは劇団みずからが海外公演に対する、あるいは「日本演劇に対する幻想?を持ち」(李潤澤)、財政的な問題においてそれがまさに当然であるかのようにすすんで忍耐する、あるいは一定額のギャランティを約束されたといえども不可避に契約が破棄される場合が発生するためである。両国は互いに劇団を招請する側は劇場貸館料からさまざまな財政的負担を抱え込むことになる。海外公演ではチケットの販売収益のみですべての財政的問題を解決できないことはもちろんである。そこでわが国の劇団が日本公演に行くときには、どこの招請であるのかを良く考えなければならないという意見が台頭する。両国のパートナーシップにおいてお互いが対等の条件を提示できなかったり、あるいはその約束を破れば両国の交流において逆・副作用が生まれるほかないからである。

李潤澤はこれに対して「たしかに1960年代から70年代は日本の演劇は韓国にくらべて格段に進んでいたでしょう。しかしながら1990年私が日本に行ったときには既にわれわれの演劇と日本の演劇は対等になっていました。今の日本の公演文化がわれわれより数十年進んでいるというのはともすれば虚構な幻想にすぎません。日本の小劇場は多様性の中に生き残ることを目的としているために、伝統性は弱い。これがまさに日本の限界となるでしょう。流行を追うことによる多発的で、文化的蓄積がなされないためです。現在は平田オリザの演劇のみが生き残っていると思える状況であり、他の演劇はその寿命が少しずつ短くなっています。もしかするとわれわれの若い後輩たちが日本の望ましくない点を無条件に学んでくるのではないか心配です」と言う。

ここで海外公演に対する無条件の幻想を憂慮して付け加えるキム・グァンボの話は意味深長である。「海外公演のメリットも良いですが、文化的にきちんとした応対を受けることも重要です。必ず金を受け取らなければならないというのではなく、最小限のギャランティ(最小限の制作費という意味を含んで)はまさに最小限の自尊心だからです。私も若い頃にはアリス [訳注:アリスフェスティバル] へ行きたがりました。しかし今は自分自身を高めなければならないという考えに、自身の質をまず考えます。いつかしら機会は来るでしょうから。作品の完成度がすべてを評価することになるからです」。

事実、海外公演と関連する韓国の支援金もまたさほど潤沢な方ではない。外務部傘下にある国際交流財団(Korean Foundation)は「厳正な審査を経て制限的に、両国間の劇団の知名度が確実なとき、韓国文化を紹介するという趣旨がはっきりとしている劇団にのみ支援を行って」(金正ト)おり、文芸振興院のばあい、外国劇団とわが国劇団の交流に直接支援を行うのではなく、ソウル公演芸術祭を通じていっぺんに支援を行っているので、今年の桁外れの競争率をかんがみるとき「すべてにあまねく行う」支援ではありえないだろう。(演劇界の)一角では、日本の対韓国のマインドを憂慮する声もある。日本はわが国に比較して自国の文化を紹介することに投資する程度が高い方であり、また国際交流基金(Japan Foundation)における予算面のみを見るとき、日本の演劇人がわが国に来ることはわれわれが日本へ行くこととは「ちょっと違う立場」(キム・グァンボ)なのである。「日本への進出においてその人たちが何を追及しようとするのか、その団体の性向を正確に知って、彼らといっしょに話をし(実際、大学路で話をすることよりもはるかに広い話をすることができる)、互いに出会えてよかったという思いがする」と朴根亨(パク・クニョン)の感傷に用事深い憂慮が付け加えられる。「これは私の感じたことですが、われわれを利用しようとするようです。日本がわれわれを、プロジェクト式でですよ」。

2002韓日ワールドカップがあり、また「韓・日国民交流の年」でもある本年は、相当量の公演物が雨と降り注いでいる。国内や国外からかつてないほどの公演物が、われわれを訪ねて来たりあるいはまた国外へ向かう。その中でもわが国の国立劇場と同じ格である日本の新国立劇場と韓国の芸術の殿堂が主催し、劇作家金明和(キム・ミョンファ)と平田オリザが共同劇作、演出家李炳T(イ・ビョンフン)と平田オリザが共同演出した『その河を越えて、五月』が印象的だ。そして韓国と日本の共通したテーマと素材を利用して、古代・中世・現代・未来の4部作を共同作業で行うKorea-Japan PAC2002があるが、わが国からは李潤澤とイ・ヘヂェらが、日本からは新宿梁山泊の金守珍、鐘下辰男らが参与する。神市ミュージカルは『ギャンブラー』を準備中であり、韓国の劇団としては最大の巡回公演となるこの公演は、来る5月22日から6月23日まで日本の13個都市で行う予定である。日本のみならず世界的にも広く知られたパフォーマンス『ナンタ(乱打)』も続々とラブコールを受けている。日本の日韓演劇交流センターではわが国の゙廣華の『狂ったキス』など5作の戯曲作家を招請し、本年10月12日から14日までドラマ・リーディングやシンポジウムを行う予定である。わが国の韓日演劇交流委員会で日本の戯曲を選別して翻訳し、来年には朗読会を行い、本として刊行する予定である。劇団倉庫劇場(代表:李康列)では日本の劇団月光舎の小松杏里と韓・日共通の関心事である慰安婦問題や反戦などに対する各自の悩みを持ち寄って作品化したのち、2003年4月に日本で公演と討論会、そしてシンポジウムを行う予定である。

「日本はほんとうに憎いけれど遠ざけることはできない国です。目に見えない西欧指向的、脱アジア的面貌を持っている。しかしながら韓国の伝統演戯に対するたいへんな関心を持っています。われわれは日本の発達している文化的インフラを利用できなくてはなりません。そのためには文化交流の専門家、文化戦略家がかならず必要です。あいて国の文化を良く理解している人物、制度に飼いならされていない頭を持った者を育てなければならないでしょう」(李康列)。「日本はそうとう多様な演劇を持っており、観客人口も多いと見ることができます。そして立派な演技者の訓練方式とシステムを持っています。そのような点からわれわれが学ぶ点は多いでしょう。しかしわが国演劇の水準があちらよりも遅れているのではありません。われわれの瞬発力と創造精神は彼らに勝るとも劣らないものですから」(金正ト)。

日本との演劇交流はいまや誰も”一時の春”とは言わない。わが国の劇団は「自身のものはつまり我々のもの」という考えで、われわれの文化的位置と戦略を正しく示し、そして多くを取り揃えなければならない時である。持続的な連帯の中で互いの長所短所を学び、よりいっそう成熟した関係で大きく背伸びをしてみることを望むものである。そのためには指摘したように公式の窓口の体系的組織化、劇団に対する公平で現実的な支援、また劇団みずからの自負心と責任意識などがさらに必要だろう。

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