Theatre Reviews
メタ批判的な演劇
劇団パーク『ソウルノート』(平田オリザ作)/ 金文煥(演劇評論家・ソウル大学教授) 「韓国演劇」2003年4月号(p51)

演劇に関する演劇をメタ演劇とするならば、演劇ではなく他の芸術を素材にした演劇も同じ類型に属する言えないだろうか?劇団パークの『ソウルノート』(平田オリザ作、ソン・ギウン訳、パク・クァンヂョン翻案・演出)を見ながらそんな考えが浮かんだ。

既に1999年、わが国へ来て原語で公演したことのあるこの作品の原題は『東京ノート』だ。美術館を背景にこの場所を訪問するさまざまな人間、あるいは人間群の対話を、とくに濾過することもなく収録したようなこの作品に明確なあらすじはありえない。敢えて求めるならば、ある家族の兄弟と次男の妻が交わす話の占める比重がその中で大きい。美術館のレストランの予約時間まで待つあいだを行ったり来たりするうちに、観客は次男に別の女性ができてことによると妻と別れるかもしれないとか、父母の面倒をみるために長女が自身の夢を断念したとかいう事を知ることになるけれども、これは他の日常事と同じで、すぐにほかの話の中に埋もれてしまう。あるいはまた、戦争中のベルリンを訪問したことがある空輸部隊員のガールフレンドとの話を聞くことになるが、これもまた戦争が連想させるさまざまな要素とは繋がらないままに、静かに流れていく。農村に帰郷して徴収を忌避してみるかという話も聞こえるが、これもまたさまざまな話のなかのひとつにすぎない。父母の離婚で家庭的な愛情を実感できない状況で、相続によって得た絵画を美術館にすべて寄贈しようとする若い女性と彼女の弁護士が学芸員たちと繰り広げる事務的な、しかしべつに重要とも思えない質疑応答もちょっとしたエピソードに過ぎない。家庭教師だった大学院生に愛を感じたが別れて3年ぶりに偶然会うことになった美術史専攻の大学生の場合も特別な意味は持たない。

このようにモザイクを象徴させるかのように、舞台場面にはモンドリアン風の幾何学的な絵画が配置されているが、劇中話題には17世紀オランダの画家であるレンブラントとベルメールが入り混じる。特に後者の「手紙」という作品に関する言及は、この公演の性格を言い表しているようだ。アトリエの中で光の当たる部分は比較的細密に描写するがそのほかの部分は闇の中に放置されるという、したがって生活から世界を剥ぎ取ったような、生活感の無さを感じさせるという言及は明滅する現実の局面を、その瞬間瞬間を静かに捕捉していくこの作品の性格と良くあっているように思えるからだ。

作家は現実でそうあるように、ある場所で偶然に出会った人々の対話をそのままに重ねるなど、いわゆる極写実主義という技法を活用して、日本の近代演劇を支配していた新劇的な写実主義とともに、1970年代以降いわゆるアングラ演劇とここから影響を受けたさいきんの青年世代の行動主義をすべて批判しようとする。そしてこのような類型を「静かな演劇」と特化させもする。すなわち人為的な構造(起承転結)と意味中心のセリフを尊重する前者のような、そしてこれを拒否する後者のすべてを拒否しつつ、ありのままの現実を加工することのない言語の駆使を通じて描写する。

そうして2004年を時間的背景として、戦争を避けてヨーロッパから日本に空輸された17世紀画家を特別展示するという状況設定は、歴史や状況認識とさほど緊密に連結しない。したがって韓国公演はさほど難しさを感じないままに『東京ノート』という原題を『ソウルノート』の変えたと思われる。しかし日本と韓国は単に言語的にのみ異なるのではない。たとえば登場人物たちの言行は地域名称をソウルと変えたものの、きわめて日本式だ。神経質なほどに守られる礼儀正しさはその小さな例に過ぎない。そうはなれない韓国人の姿を思い浮かべるとき、題名のみを『ソウルノート』と変えただけではむしろ不自然だ。そして既に西洋美術の傑作を多く買い集めることにとどまらず、つねに展示することで知識階層のみならず市民階層までも西洋美術との接触が生活の一部となっている日本社会では、美術館での約束が日常時に属するために自然に見えるが、我々の場合そのような風俗はまだなじみが無いように見える。したがって題名を『ソウルノート』に変えたことは別に意味が無いように思える。とはいえ、さながら「ラジオ放送を見ているような」(←原文そのまま:訳注)感じの強い原作公演(1999年芸術の殿堂)に比べると登場人物の言行が少し自然に見えてくる差異は、韓・日間の文化の差異を微妙に感じさせる。

SeoulNote
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