余禄 6000とベル、 GWRとスインドン市 |
60 00の写真を色々探している内に、トップにベルを付けた、珍しい写真を発見した。
それは1927年、ボルチモア、 オハイオ鉄道のイベント等に参加するため、渡米した時の記録であった。
この年6月、6000-6005の6両が完成し、慣らし運転が行われた
が、この時既に渡航が予定され、運転手と釜焚きは指定され,他の
人より余計に訓練を重ねて、その準備を整えていた。
大西洋横断を経てアメリカに到着した6000は、予定していた単一クレーンがなく、陸揚げに苦労したが、ともかくも全行程を走破して無事終了したが、様々なトラブルがあったようである。
さて、トップに飾ったベルだが、その所有者が転々としたという 因縁のある名鐘であり 加えてアメリカ人の開拓時代への郷愁から、このベル付き6000は、なかなか人気が高く、企画は大成功だった。私自身もこのベルの存在を知ってからは、、どうせキングを作るなら、6000と、その製作意欲に、更なる高まりを覚えた
余談になるが、アメリカ開拓に大西部を驀進した機関車、4−4−0の雄姿は、映画やテレビでお馴染みですが、模型人たるもの誰しも、一度は作りたい機関車です。特にあの大きなヘッドライト 大きなダイヤモンドスタック(煙突),手動で鳴らす鐘等は重要なアクセントです。私もこれを作りたいばかりに、弁慶号そして、ボールドウィンの4−4−0を製作しました。それにしてもこれらの前照灯は、見事なものですね。
それにひきかえ、GWR、の方は、シングルの時代から、キング迄 あいも変わらず使用する伝統。しかも前照灯とカンテラが全く同じもの。愚考するに、米英両国の路線の違いにあると思う。
爾来アメリカ鉄道の軌道の悪さは定評があり、先台車なしには走れないと、まで言われていたが、夜間運転の安全上からもライトの高照度化は当然の事かもしれない。一方イギリスでは、開拓地と異なり十分管理された路線上の走行で、その差異は大きなものがあり、これが前照灯の違いとなったかと、思考する。
6000に装着されたブレーキは,定評ある、ウエスティングハウスであったが、全期間これが不調であったことも、多分路線が原因であったとおもわれる。ともあれ6000は就役前、渡米までして過酷な試運転を受ける結果となった訳である。
G.W.R.とスインドン市
GWRの車輛はそのほとんどが、このスインドン市の工場で製造されたという著名な都市である。人口2500人町も、その最盛期には、21,000[この内12,000人がGWRの労働者)となったが、その繁栄もヂィーゼル、電化への転換で次第に衰退し、1986年、鉄道工場は閉鎖され町は衰退した。しかしロンドン市西120K、交通のアクセスがよく、物流の拠点として、往年の繁栄を復活した。ホンダを始め日系企業も多数進出している。市とGWRは、1962年にGWR鉄道博物館を開設したが、2000年にはGWRの産業史博物館とリニュアルオープンさせた。。 ここにはスター級の4073、レプリカのノーススター等も展示されている。
[展示されているノーススター号の模型]縮尺1/11.3ゲージ7,5吋未完成
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